ふじさわ・たけお
明治43(1910)年生まれ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。旧制京華中学校を卒業後、昭和9(1934)年から鋼材小売店の三ツ輪商会に勤務。昭和14(1939)年には独立して日本機工研究所を設立するが、戦争激化のため福島県二本松市に疎開。終戦後も同地にとどまり製材業を営む。昭和24(1949)年、本田宗一郎と出会い、ホンダの常務に就任。以後、本田の名参謀として専務、副社長を歴任。本田は藤沢に実印と経営の全権を委ね、自らは技術者に徹した。昭和48(1973)年、社長の本田とともに副社長を退き取締役最高顧問に就任。ホンダの創業25周年を目前にしての両者の決断は、当時「最高の引退劇」と評された。昭和58(1983)年には取締役からも退き、六本木で骨董店「高会堂」を開くなど趣味人としての余生を過ごした。この言葉は「ものづくり企業」としてのホンダの企業理念を表したもの。昭和63(1988)年、78歳で死去。藤沢の死から1年後の平成元(1989)年、日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たした本田宗一郎は、授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸を訪れ、位牌に受賞メダルをかけて「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけたという。また、学生・研究者への経済的支援を目的に、藤沢と本田による基金で設立された財団法人作行会(1961年設立、1983年解散)では、藤沢が考案した奨学金・助成金の支給条件として、①使途不問(遊びに使おうが、生活費に使おうが自由)②レポート不要③将来の進路は自由④返還の必要なし⑤誰が支給しているか知らせてはならない―と規定していた。二人がスポンサーであったことは徹底的に伏せられ、解散記念謝恩会で初めて公表された。助成金を受け取った研究者のひとりに、宇宙飛行士の毛利衛氏がいる。