はなむら・にはちろう
明治41(1908)年、福岡県飯塚市生まれ。旧制山口高等学校を経て東京帝国大学経済学部に学び、卒業後は国立福岡少年院の教官となる。昭和17(1942)年、33歳のときに日本経済団体連合会(経団連)の前身である重要産業協議会に転じ、昭和21(1946)年の経団連設立に伴い総務部次長となる。昭和28(1953)年から翌29年にかけて海運造船疑獄事件が発覚すると、当時の経団連副会長であった植村甲午郎のもとで事態収拾に手腕を振るい、それまで個別の企業がバラバラにしていた政治献金をやめ、経団連を通じて一括で行う献金システムをつくった。以降、経団連の献金窓口を担当したことから「財界政治部長」の異名をとった。昭和50(1975)年には経団連事務総長に就任、翌51年からは副会長を兼務。昭和58(1983)年には日本航空の会長に就任し、そのポストを3年間務めたほか、財界の要職を歴任した。この言葉は、経団連事務総長時代を振り返ったもの。当時の経団連会長だった土光敏夫とのエピソードとして「土光さんは良く怒りましたね。ただ、私だけは怒られませんでした。わたしが事務の責任者だからです。責任者をやっつけたら、みんながついてきませんからね」と述べたもの。日本航空の会長時代には「経営者は必ずしも頭がよくなくてもいい。人の才能を見抜き、激励してやる包容力が必要なのだ」と語った。昭和63(1988)年に経団連の相談役に退き、平成9(1997)年、88歳で死去。