さくらだ・たけし
明治37(1904)年、広島県赤坂村(現在の福山市)に生まれる。第六高等学校から東京帝国大学法学部へ進み、大正15(1926)年に卒業すると日清紡績へ入社。社長の宮島清次郎に才能を見出され要職を歴任。終戦直後の昭和20(1945)年には41歳の若さで社長に就任した。日本経営者団体連盟には創設時から参画。実質的なリーダーとして労使関係の正常化に尽力し「ミスター日経連」の異名をとった。また、師匠の宮島を通じて吉田茂との関係を深め「財界主流派」として政財界に強い影響力を持つようになった。池田勇人内閣時には、永野重雄、小林中、水野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれるようになり、行財政改革の中心的存在となった。戦後の紡績は重工業化に伴って斜陽産業となり、同業他社の多くが合成繊維に転換していくなかで、櫻田は〝本業〟を守り通した。オイルショック後、業界各社は軒並み無配に転落したが、日清紡だけは安定配当を継続した。上の言葉は、師匠である宮島清次郎の教えが大きく影響したものだといえる。41歳の若さで社長に抜擢された櫻田は自戒をこめて「自分がこの会社を繁栄させた、などと考える社長は、思い上がりの最たるものだ。預かりの精神のない社長は失格だ」と語っている。また、宮島に政府から叙勲の話があったときには「男が民間で一生をかけてやった仕事に役所が一等だ、二等だとランク付けするのはおかしい。櫻田、行って断って来い」と命じられ、辞退の使者にされた。このため後年、櫻田自身も叙勲を辞退している。昭和60(1985)年、81歳で死去。