おかだ・かんじろう
明治24(1891)年生まれ。三重県出身。大正2(1913)年、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業後、古河合名会社に入社。昭和19(1944)年、古河鉱業の代表取締役常務となり、翌年には社長に就任する。古河財閥の中核企業である同社のトップに、創業家と血縁関係がない人物が就任するのは初のケースだった。しかし、GHQによる経済人追放によりわずか2年後の昭和22(1947)年には古河を去ることとなる。同年、宇部興産に東京支社長として迎えられると、常務、専務、副社長を歴任。宇部興産へ入社した翌年には第2次吉田茂内閣で石炭庁長官としての起用が有力視されていたが、これを辞退している。昭和33(1958)年、宇部興産副社長を退任。同34(1959)年、68歳で古巣の古河グループへ復帰し富士通信機製造に入社。すぐに同社の5代目社長に就任する。同37(1962)年の年頭訓示では「コンピュータに社運を賭ける」と宣言。黎明期の国産コンピュータ事業を育成し、同社発展の基礎を築いたことから「富士通中興の祖」と呼ばれる。この言葉は事務系の岡田が社長就任後、技術系の専門書を驚異的なペースで読み漁っていたときのもの。猛勉強でごく短期間のうちにコンピュータへの理解を深めたという。同45(1970)年には会長に退き、同47(1972)年、80歳で死去。