おがわ・のぶお
明治45(1912)年、徳島県長生村(現在の阿南市長生町)に生まれる。徳島県立富岡中学校(現在の県立富岡西高校)では、中曽根内閣で官房長官を務めた「カミソリ後藤田」こと後藤田正晴と同級生。中学校を首席で卒業すると、昭和7(1932)年に徳島高等工業学校応用化学科製薬化学部(現在の徳島大学薬学部)へ入学。その翌年には同校初の「陸軍衛生部依託生徒」となる。昭和10(1935)年に卒業し、東京の歩兵第3連隊へ入営。見習士官の曹長として訓練を受け、陸軍三等薬剤官(昭和12年の改正で陸軍薬剤少尉)に任官。戦中は薬剤大尉としてソロモン諸島に従軍し、ブーゲンビル島で終戦を迎えた。終戦時の軍での階級は薬剤少佐。昭和21(1946)年に復員すると大協石油(現在のコスモ石油の前身)へ入社し、三重県四日市市で勤務。その2年後、昭和23(1948)年に帰郷すると地元で薬局を開業。昭和28(1953)年からは高純度塩化カルシウムや、リン酸カルシウムを製造し、製薬会社や蛍光灯メーカーなどへの納入を開始した。昭和31(1956)年、日亜化学工業を設立して社長に就任。技術開発に絶え間なく取り組み、蛍光灯用・ブラウン管テレビ用の蛍光体分野で同社を世界有数のメーカーに育て上げた。また、同社の研究開発員だった中村修二(現在はカリフォルニア大学サンタバーバラ校=UCSB=教授)が青色発光ダイオードの開発を提案するとこれを採用。アメリカ留学を認めるとともに、3億円の研究開発費を拠出して開発を支援した。会長在任中の平成14(2002)年、90歳で死去。同社出身の中村教授がノーベル物理学賞を受賞したのは平成26(2014)年のことだった。