おばら・てつごろう
明治32(1899)年、東京府荏原郡大崎村(現在の品川区大崎)の農家に生まれる。大正8(1919)年、城南信用金庫の前身のひとつである大崎信用組合に入職。終戦直前の昭和20(1945)年8月10日、空襲で被害を受けた東京・城南地域の15の信用組合が合併し、国内最大規模の城南信用組合が設立されると専務理事に就任。同31(1956)年には城南信金の3代目理事長に就任した。同38(1963)年、全国信用金庫連合会(現在の信金中央金庫)の会長に就任してからは、20年以上にわたって信金業界のトップとしてリーダーシップを発揮。全国の信金を行脚して若い信金マンらに「工員服に油がしみ込んでいるような工場主、いかにも質素な商店主、こういう人たちを金融機関が大切にしないと日本は滅びます」「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」などと独自の金融哲学、いわゆる「小原鐵学」を説いてまわった。上の言葉は「小原鐵学」の根幹ともいうべきもの。城南信金はバブル期にも、投機目的の資金は貸し出さないという姿勢を鮮明に打ち出した。「金は銀よりも上」とする意識が強い信金マンのプライドと誇りから、「銀行に成り下がってはいけない」とも語っていたという。平成元(1989)年、89歳で死去。城南信金は大震災直後の平成23年4月、いち早く「脱・原発」を宣言。東京電力との契約を打ち切っている。