みやじま・せいじろう
明治12(1879)年、栃木県安蘇郡飯田町(現在の佐野市)に、佐野商業銀行の頭取などを歴任した実業家、小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学校(現在の栃木県立宇都宮高等学校)在学中は問題行動が多かったため、10カ月ほど東京の商店に丁稚奉公に出されたことがある。この時の経験が後に労働者の立場を重視する経営姿勢につながったとされる。旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、明治39(1906)年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現在の住友金属鉱山)に入社。明治43(1910)年には田村利七(東京紡績社長)の娘・盛子と結婚し、田村の実家である宮島家の養子となる。同時に東京紡績に入社し専務取締役まで昇進。大正3(1914)年、東京紡績が尼崎紡績(現在のユニチカ)に吸収合併されると退職し、日清紡績に専務取締役として迎えられる。日清紡に転じてわずか5年後の大正8(1919)年には社長に就任。従業員の待遇改善に取り組み、昭和4(1929)年には業界でいち早く深夜操業を廃止した。昭和15(1940)年、60歳で会長に退き、昭和20(1945)年には会長職からも退任。このとき、41歳の櫻田武を社長に昇格させた。財界での活動を通じて、帝大の同期だった吉田茂政権の支援体制確立に尽力。第3次吉田内閣組閣時には大蔵大臣への就任を要請されたが固辞し、代わりに池田勇人を推挙した。この言葉は政府から叙勲を打診されたときのもの。後継者の櫻田社長に対して、「男が民間で一生をかけてやった仕事に役所が一等だ、二等だとランク付けするのはおかしい。櫻田、行って断って来い」と命じたという。辞退の使者にされた櫻田自身も後年、叙勲を辞退している。清貧な生活態度を生涯貫いた人物としても知られ、日本工業倶楽部の理事長時代には、会員から洗面所でお湯が使えないと苦情が出ても「水で手を洗っては冬が越せないような老人には、企業経営の厳しさには耐えられないから遠慮なく退いてくれ」と言い放ち取り合わなかったという。昭和38(1963)年、84歳で死去。