うの・おさむ
大正6(1917)年生まれ。京都市出身。小学校4年生時までに母と父を相次いで亡くし、銀行員だった父の遺産の貸家で生計を立てる継母に育てられた。京都三中では成績上位だったが受験直前に肺炎カタルを患い、1年浪人して旧制第三高等学校に入学。卒業後は官僚になることを目指して東京帝国大学を志望。ドイツ語予備校での1年間の浪人を経て東京帝大法学部政治学科に入学した。昭和17(1942)年、戦時措置により帝大を繰り上げ卒業すると海軍経理学校へ入学。翌18(1943)年には海軍主計中尉として内地配属となった。昭和20年3月に結婚し、生家の「野村」から婚家の「宇野」へ改姓。名古屋で終戦を迎え同年11月に復員した。戦後は大建産業に入社するが、昭和24(1949)年に過度経済力集中排除法で同社が分割されると呉羽紡績へ移籍。順調に出世して織物部長となっていた昭和41(1966)年、会社が東洋紡績と合併すると加工品輸出部の副部長となり、以後は商品開発部長、化成品事業部長などの主要ポストを歴任。社内初となる本格的な非繊維事業を手掛け、ポリプロピレンフィルムなどを事業化した。昭和47(1972)年取締役就任。常務、専務、副社長を経て昭和53(1978)年、社長に就任した。昭和58(1983)年には会長に退き、以降は関西経済連合会会長や第3次臨時行政改革推進審議会会長代理などの公職を歴任した。アメリカの実業家・詩人、サミュエル・ウルマン(ドイツ出身のユダヤ人でアメリカに移住)の詩『青春』を座右の銘としており、ウルマンに関する書籍を作山宗久(千代田化工建設審議役)と共著で出版している。この言葉はその詩を翻訳した一節。平成12(2000)年、83歳で死去。