だん・たくま
安政5(1858)年、筑前国福岡荒戸町(現在の福岡県福岡市中央区荒戸)に福岡藩士・神尾宅之丞の四男として生まれる。12歳の時に藩の勘定奉行・團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として海外留学する旧藩主・黒田長知に随行して渡米。明治11(1878)年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し、帰国後は大阪専門学校(旧制第三高等学校の前身)や東京大学理学部で助教授として教鞭を執った。明治17(1884)年には工部省へ転じ三池鉱山局の技師として奉職。明治21(1888)年、三池鉱山が払い下げられるとそのまま売却先の三井に移籍して「三井三池炭鉱社」の事務長に就任。三大工事といわれた三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を手掛けた。明治26(1893)年には三井鉱山合資会社専務理事、明治42(1909)年には同社の会長に就任。トップとして辣腕を発揮し、三井銀行を追い抜いて三井物産と肩を並べるまでに業績を伸ばした。大正3(1914)年、益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任し、名実ともに三井財閥の総帥となった。大正6(1917)年、日本工業倶楽部を設立し初代理事長に就任。大正11(1922)年には日本経済聯盟会(経団連の前身)を設立し、理事長・会長職を歴任した。昭和7(1932)年3月5日、東京・日本橋の三越本店寄り三井本館入口で、当時19歳の少年に銃撃(血盟団事件)され73歳で死去。昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判する右翼活動家の凶弾が財閥トップを襲った暗殺事件だった。