つぶらや・えいじ(本名は円谷英一=つむらや・えいいち)
明治34(1901)年、福島県須賀川町(現在の須賀川市)で糀業を営む商家の長男として生まれる。明治37(1904)年、母親が次男を出産後に19歳の若さで病死すると、婿養子だった父は離縁されたため、祖母の手で育てられる。地元の尋常高等小学校を卒業した大正15(1916)年、15歳で上京し月島機械製作所に見習いとして入社するが1カ月余りで退社。日本飛行学校に入学したものの、一機しかない飛行機が墜落したことで同校は活動停止となり、円谷もやむなく退学して東京電機学校(現在の東京電機大学の前身)へ転じた。在学中には玩具会社の考案係嘱託となり、「自動スケート」や「玩具電話」などのアイデアで学費を稼いだという。大正9(1920)年、卒業と前後して国際活映巣鴨撮影所に入社、カメラマンとして才能を発揮する。2年の兵役を終えると京都の小笠原プロダクションに所属、27歳で松竹京都撮影所へ転じ、次いで日活太秦撮影所へ引き抜かれ、さらに33 歳のときには特殊撮影技術を買われて東宝の前身であるJОトーキーに移籍した。東宝では戦意高揚映画を担当し、特撮技術の手腕を大いに発揮したが、戦後はこのことを理由に公職追放されてしまう。フリーになると円谷プロの前身となる「円谷特殊技術研究所」を設立。公職復帰後の昭和29(1954)年11月3日に公開された『ゴジラ』で日本映画技術賞を受賞し、その後も『ゴジラの逆襲』『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『モスラ』などで特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、円谷作品というだけで海外の映画会社が契約を結びに来日したほどだった。東宝との専属契約解除後はテレビ界へ進出。昭和41(1966)年に放映開始された『ウルトラQ』を大ヒットさせると、その後も『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪獣ブースカ』『マイティジャック』などテレビ史に残る特撮作品を数多く世に送り出した。日本が生んだ〝特撮の神様〟は、上の言葉のほかにも「特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ」「ないものは作ればいい。金に困ったら発明すればいい」などと述べているが、その一方で「火と水はミニチュアにできない」とも語っている。昭和45(1970)年、68歳で死去。