いむら・こうき
明治22(1889)年生まれ。長崎県島原市出身。長崎医学専門学校への入学を志して蘭医系統の私塾「行余学舎」で学ぶ。しかし、生家の財政難から中退を余儀なくされ、長崎民友新聞で配達員や事務員として勤務した。その後、台湾へ渡り台湾帝国製糖で南投鉄道敷設を担当。帰国後は中越水電支配人を経て、昭和3(1928)年に富山市で不二越鋼材工業(のちの不二越)を創業した。昭和5(1930)年には「ハクソー(金切鋸刃)連続焼入炉」を開発し国内初の量産化に成功。これによって不二越の経営基盤を築くと翌年からはドリル分野にも進出した。欧米の最新鋭設備を積極的に導入し、エンドミル、歯切工具、精密工具、ベアリングなどの国産化も推進。昭和11(1936)年までに約70品目もの新商品開発に取り組み、総合工具メーカーとしての地位を不動のものとした。また「従業員の生活の向上と幸福は、高賃金だけで解決されるものではない」として、戦前から社員宿舎などの福利厚生施設を整備したほか、自社運営による病院や工業高校も開設した。戦後は日本機械工業会副会長、富山テレビ社長なども務めた。昭和46(1971)年、81歳で死去。