【診断結果】商道徳を遵守する顧客第一主義の誠実なあなたにはこのコトダマ

もりなが・たいちろう

慶応元(1865)年、佐賀県伊万里市の陶器問屋兼網元の家に生まれる。6歳の時に父親が病死、母親も再婚したため親類の家を転々として幼少期を過ごした。陶器商を営む伯父に引き取られ商売の基礎を学び、横浜の陶磁器輸出商店で奉公したあと渡米。アメリカで伊万里焼の販売を目論んだが失敗に終わり、菓子工場で修行することになる。渡米中に洗礼を受け、以後は生涯を通じて熱心なクリスチャンとなった。12年間の菓子職人修行で製造技術を修得して帰国。明治32(1899)年、東京・赤坂に森永製菓の前身となる「森永西洋菓子製造所」を開設した。わずか2坪の作業所兼店舗からのスタートだったという。最初に手がけた菓子はマシュマロで、これが駐日米国公使の夫人らに気に入られると、瞬く間に「森永の洋菓子」は上流社会で評判となった。その後も次々にヒット商品を送り出し、とくに大ヒットとなったキャラメルは海外輸出の主力商品に成長した。大正9(1920)年には従業員が1300人を超え、その翌年には当時「東洋一のオフィスビル」と称された「丸の内ビルヂング」へ本社機能を移転。森永は名実ともに「東洋の製菓王」と呼ばれるようになった。大正12(1923)、関東大震災が起きると、地震発生直後に「この地震の被害は甚大になるはずです。私たちは全力を挙げて被災者を救わなければなりません」と宣言。いち早く被災者救援活動に乗り出し、ビスケット6万袋、ミルクキャラメル10万箱を日比谷公園などへ運び込んで配布した。深川の清澄公園ではドーナッツを配ったほか、コンデンスミルクを井戸水で溶かして約5万人に飲ませたという。また乳幼児を抱える母親に対してはドライミルクを徹夜で配ったほか、政府に寄付して貯蔵米を供出させると、それも街頭で配り続けた。昭和12(1937)年、71歳で死去。息子に語った最後の言葉も「困っているひとがいたら助けてあげなさい」だったという。


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