相続税対策といえば、いかに現金を他の資産に換えて評価額を減らすかという視点で語られがちだ。しかしどれだけ税額を減らしたところで、肝心の現金が手元になければ納税ができず、結果的に思い出の残る自宅など大事な遺産を処分することにもなりかねない。2019年に亡くなった女優の八千草薫さんも納税資金不足という画竜点睛を欠く終活を行ってしまったがために、本人の遺志とは裏腹に自宅の取り壊しという結末を迎えてしまった。
2020年10月半ば、東京都世田谷区の高級住宅街で、150坪の広大な敷地に建てられた邸宅の取り壊し工事が始まった。この敷地の庭には桜や金木犀が植えられ、メダカなどが泳ぐ池もあったという。近所でも有名な豪邸で、近隣住民からは取り壊されることを惜しむ声も聞かれた。
この邸宅の元の持ち主は、亡くなった女優の八千草薫さんだ。八千草さんは宝塚歌劇団のスターとして人気を博し、退団後は多くのテレビドラマで気品のある女性の役を演じてお茶の間に親しまれた。しかし2017年に膵臓がんが発見され、闘病の末に88歳で亡くなったのはその2年後のこと。
八千草さんが亡くなったのは19年10月24日だ。それから約1年が経ち、様々な身辺の整理が済んで予定通り家宅の処分が始まったのかといえば、そうではない。それどころか、自宅を残すことは、本人が何より切望していたところだった。
八千草さんは生前から、この家を死んだ後も残してほしいという希望を持っていた。50年連れ添って07年に死別した夫との思い出が詰まっていて、サンルームから見える庭と池がお気に入りだったという。一方で「私は文化人ではない」として記念館のような形で残ることは望まなかった。
がんとの闘病のなかで〝終活〟を始めた八千草さんは、まず世田谷区に寄付を申し出た。しかし「更地でなければいらない」と断られてしまった。そこで様々な案を検討した結果、選んだのは大事な知人たちに遺贈するという方法だった。
遺贈を受けたのは、八千草さんと亡夫のそれぞれの遠戚2人と、八千草さんが所属する事務所の社長だ。3人とも八千草さんの生活の世話をしたり一緒に旅行をしたりと、本人からの信頼が厚かった。3人としても故人の遺志を最大限に尊重しようという思いを持っていた。
とはいえ、今後長くにわたり豪邸や庭を管理していくのは負担が大きすぎるため、八千草さんを含めた全員で「価値の分かる相手に譲渡する」という方針を立てたという。その売却資金を3人の相続税の納税資金に充てることも確認し、八千草さんは大切な家を残すという終活を終えて旅立っていった。
しかし八千草さんの死後、残された3人に想定していなかった事態が降りかかる。全世界を襲った新型コロナウイルスの感染拡大だ。急速に冷え込む経済状況のもと、不動産売買の市場も大きな影響を免れなかった。
3人は当初、個人への売却を望んでいたというが、コロナ禍で先行きが不安ななか、150坪の豪邸を買おうという人はいなかった。遺贈を受けた本人が週刊誌に語ったところによると、その価値は「敷地だけで3億円」だったという。そこで方針を転換し、屋敷を残してくれるという条件で買い取ってくれる不動産業者を探し始めたが、やはり3億円超という価格がネックとなり、買い手探しは難航した。
そうした状況で、八千草さんが亡くなってから10カ月、つまり3人にとっての相続税の申告期限が迫ってきた。3人の心を落ち着かせなかったのは、不動産の買い手が一向に現れなかったことだけではない。法定相続人ではない3人に課される相続税は、税負担が2割加算されるルールが適用される。一部報道では1人当たりの相続税額が2500万円になるという予測もあったが、実際には「そんなもんじゃない」(前出の本人のコメント)というレベルの税額だったようだ。
結局、買い手は見つかった。不動産業者への売却契約が締結され、自宅の引き渡しが済んだのは20年9月末のことだ。しかしその契約内容に、「自宅を残す」という条件は付けられていなかった。果たして翌月、解体業者の重機が敷地に入り、多くの思い出を残した豪邸にその爪をかけることとなった。おそらく今後、150坪の敷地は細かく分譲され、買い手の付きやすい価格の住宅が建ち並ぶことになるだろう。残念ながら、「思い出のある家を残したい」という故人の遺志が果たされることはなかった。
今回の八千草さんの邸宅を巡る〝トラブル〟に、予期せぬコロナ禍が大きく影響したことは確かだ。だがコロナ禍を抜きにしても、1億円を超えるような高額不動産は買い手が限られる。望み通りの額で買ってくれる相手がすぐに見つからないという展開は予想できたはずだろう。その上で、実際に降りかかってくる税負担の正確なシミュレーションを欠かしたこと、それに対する納税資金対策を講じておかなかったことが、望まない結末を迎えた原因と言わざるを得ない。
3億円の豪邸でなくても、相続財産の大半が自宅などの不動産というのはよくあるケースだ。国税庁が19年12月に発表したデータによれば、相続財産のうち不動産が占める割合は35・1%で、減少傾向にあるものの、依然現金や預貯金をしのいで最多となっている。
しかし税金は原則として現金で払うものだ。相続税に関しては物納が特例的に認められているものの、適用のハードルは高い。さらに物納のデメリットとして、物納の際の評価額はおおむね市場価格よりは低くなってしまうことが挙げられる。
これは不動産を申告期限までに売却して納税資金を作る場合も同様だ。今回の八千草さんのケースのように申告期限が迫りくる状況では、条件を引き下げてでも売却しなければならないことが起こり得る。時間をかければ高値で売れる不動産でも、相続税の申告期限というタイムリミットがあるせいで、安値で折り合わなければならないわけだ。
相続財産としての評価額は、現金が額面通り10割であるのに対し、不動産であれば少なくとも2~3割は圧縮できるといわれる。そのため相続税対策を講じる際には、どうしても「現金を別の資産に換える」という方向性で考えがちだ。しかしそれらの対策は、しっかり納税資金を準備した上で講じるのが大前提であることを忘れないようにしたい。
具体的には、預貯金や現金などの資産も十分に残しておくことに加え、相続人を受取人とした生命保険に加入しておくことが考えられる。生命保険金は「みなし相続財産」として課税対象にはなるが、法定相続人であれば他の財産から独立した非課税枠が利用できる。また様々な非課税特例や年110万円の非課税枠を使って、生前贈与をしておくというのも賢い手だ。
そうした生前対策に比べると、相続発生後にとれる手は多くない。八千草さんのケースのように申告期限までに資産を現金化する方法を模索するか、一時的に金融機関から借り入れをして納税に充てるか、あるいは金融機関から借り入れる場合の金利と見比べて「延納」の利用を検討するかしなければならない。最終手段としては前述した「物納」があるが、物納する財産やその評価額は希望通りとはいかないことが多く、できれば避けたいところだ。
相続が発生してから行える納税資金の調達方法は限られるため、やはり重要なのは生前の対策ということになる。八千草さんのように、故人に「資産を残したい」という遺志があり、相続人を含めた関係者も思いを一つにしているなら、なおさら悲しい結末にならぬよう、納税資金対策をしっかり盛り込んだ相続税対策を講じたい。
(2020/12/31更新)