2006年の信託法改正で大幅に使いやすくなった「民事信託」は、従来の相続のルールではできなかったような自由な財産の引き継ぎを実現できることから、相続対策の新手法として注目を集めた。だが、より差し迫った問題として、自身が認知症になってしまった場合に家族や会社が困らないためにも経営者は信託の使い方をしっかり把握し、もしもの時に備えておく必要がある。自身の財産運用を他者に任せる方法としては、ほかにも商事信託や成年後見制度などがあるが、それらと比べて民事信託の強みと弱みはどこにあるのか。認知症患者が1千万人に達するのも遠くないと言われるなか、万が一に備えられる民事信託は、誰もが知っておかなければならない必須項目になりつつある。
信託とは、「信じて託す」の名のとおり、自分の財産を信頼できる誰かに委ね、指定した受益者のために財産の管理や処分を行ってもらうという制度だ。信託は、「委託者」から財産を託された「受託者」が「受益者」のために財産を管理するという三者関係によって成り立っている。
これまで日本では、財産を預かる「受託者」になれるのは信託銀行などの専門機関だけだったが、2006年の法改正で、家族やそれ以外の第三者からも選べるようになった。専門機関に託す信託を「商事信託」と呼ぶのに対し、新たな制度下で専門機関以外の人を受託者とする信託は「民事信託」や「家族信託」などと呼ばれ、この数年で利用が急速に増えつつある。
民事信託は、受託者や受益者を自由に選ぶことが可能で、財産の運用方法も指定できることから、相続対策への活用法が多く提案されている。さらに信託について定めた信託法は民法に優先される「特別法」に当たるため、これまで民法の制約によってできなかった自由な財産の引き継ぎも可能になるとして、富裕層の間では「夢の相続対策」とまで呼ばれている。実際には税法上のリスクなどがまだ払拭できていないため、どこまで民事信託が「夢」を叶えられるかは未知数な部分もあるが、信託がこれまでにない可能性を秘めていることは確かだろう。
民事信託が資産家らの注目を集めている理由は、これまでの相続ではできなかった資産承継ができるという点だ。だが信託の強みは、何も相続対策のためだけに限ったものではない。信託の持つ「財産の自由な裁量権を他者に託す」という特徴は、経営者の認知症対策にも最大限の効果を発揮する。
認知症患者の数は高齢社会化とともに年々増えていて、将来的には全人口の10人に1人、65歳以上の高齢者に限れば5人に1人が罹患すると予想され、誰にとっても他人事ではない。
認知症と診断されてしまえば、民法上の「意思能力のない者」として、すべての契約行為は基本的に無効となり、認知症になった期間のあらゆる契約が取り消される。預金の解約や引き出しすらできず、生命保険への加入、生前贈与、不動産の売買、養子縁組、遺産分割協議への参加もできないばかりか、残された会社の経営や株式の移動についても大きな制約を受けることになってしまう。会社も家庭も、その大黒柱を失うと、財産を自由に動かすことすらできなくなるのだから、どのような苦境におちいるかは想像に難くない。
もしも認知症と診断されてしまった場合、残された家族の取れる手としては「成年後見制度」がある。意思能力がなくなってしまった本人に代わって財産管理を行う人を立てる制度で、大きく分けて、前もって自由に後見人を選んでおく「任意後見」と意思能力がなくなってしまってからプロを立てる「法定後見」の2種類が存在する。
任意にせよ法定にせよ、後見人を立てれば凍結されてしまった預金や財産を動かすことができるようにはなる。しかし成年後見制度では後見人が動かせる財産の裁量が細かく規制されていて、原則的に本人の財産が減少する可能性のある投資や運用はできず、他者への生前贈与などもできない。あくまで「財産を維持しつつ本人のためになること」にしか財産を動かすことはできないわけだ。後見人が財産を流用する心配が少ない反面、たとえ相続対策や会社の経営のために必要な取引であっても、その実現には相当の困難を伴うことになる。
認知症1千万人時代に向け、政府はこの成年後見制度を大々的に拡大していく方針を示しているが、現状としては認知症患者の増加に後見人のなり手の育成が追いついておらず、また前述のような硬直性も相まって、意思能力を失った本人のための制度となり得るかは未知数だと言えるだろう。
使い勝手のよくない成年後見制度に代わり、認知症対策の新たな選択肢として登場したのが民事信託だ。民事信託には、成年後見制度のような財産運用への縛りはまったくなく、受託者が自由に管理、処分することが可能だ。必要に応じて柔軟に運用を行うことで、託された財産をフル活用できるわけだ。
そして信託法の特徴として、財産運用を任された受託者には委託者の信頼に応えるべく、さまざまな義務が生じることになる。善良な管理者として振る舞う「善管注意義務」、委託者の要望に応える「忠実義務」、託された財産をしっかり区別して扱う「分別管理義務」に加え、帳簿の作成保存、受益者に対する公平な扱いなど受託者の義務は多岐にわたる。
これらの義務を守らず、例えば自分の好きなように委託財産を使い込んだ時には、刑事罰を受けるわけではないが、受託者は契約違反に伴う民事責任によって生じた損害全額の賠償責任と原状回復の義務を負う。財産管理の自由度は高いものの、任された財産を好き勝手に使えるということではない。
もちろん悪用自体のリスクを完全になくすものではないが、一定の拘束力と高い自由度を両立させることが民事信託では可能となっている。
信託には民事信託以外にも、冒頭に挙げた信託銀行のような専門機関に頼む「商事信託」がある。信託業務を専門に扱うプロに任せられるという安心感がある反面、成年後見制度と同様に、財産の運用管理に制約が設けられるというデメリットがある点に注意したい。商事信託では金融財産については託せるものの、不動産や未上場の自社株などについては託せないことが多く、また託した財産についても民事信託ほど自由な運用ができないこともある。財産運用の自由度としては、ちょうど成年後見制度と民事信託の中間くらいと捉えるのがいいかもしれない。
そして商事信託を利用する上で何より忘れてはいけないのが、信託銀行に報酬が発生することだ。信託銀行や委託する財産規模によっても報酬額はまちまちだが、仮に成年後見制度の後見人を弁護士などのプロに頼んだ時の報酬が月額数万円だとすると、商事信託の報酬は契約成立だけで100万円を超えることも珍しくなく、さらにその後の管理運用にもランニングコストが発生する。商事信託の活用を検討する際には、必ず費用について考えることを忘れないようにしたい。
実際に民事信託を使うことを決めたら、通常の商取引などと同様に当事者間で契約書を作成し、それぞれが署名をすることで信託契約は成立する。
なおこの際の「当事者」とは財産を任せる「委託者」と運用を任される「受託者」の二者で、運用によって得られる利益を受け取る「受益者」は入っていない点に留意したい。つまり極論を言えば、受益者の了解がなくても信託契約自体は結べるというわけだ。
契約書の作成に当たって、これという書式は存在しないが、基本的には①信託の目的、②信託する財産、③財産の管理・処分の方法、④委託者・受託者・受益者の情報、⑤受益者が得る利益の内容、⑥変更や契約終了時の取り決め―などを盛り込むことが一般的だ。契約書は公正証書である必要はなく、契約書をどこかの役所に提出する必要もない。ただし委託者自身が受益者となる「自益信託」でないのであれば、翌年1月末までに税務署へ信託契約の内容を届け出る必要がある点には注意したい。
公正証書である必要がなく、書式に定めもないのであれば、信託契約書は自身で作成してもよいことになる。しかし信託契約は一度始まれば短くても数年、長ければ数十年にもわたる契約となるため、もし契約に不備があれば、関係者全員に大きな禍根を残すことにもなりかねない。インターネットや本などから入手できる契約書のひな型についても、「信託契約は、人によって財産の種類だけでなく、信託で実現したい目的も手法もバラバラなので、ひな型をそのまま流用できることはまずない」(信託案件に多く関わる司法書士)ということから、何らかの形でプロの目を通すことは必要だろう。また自筆遺言書と同様に、契約の真偽をめぐっても争いとなる可能性があるため、トラブルを避けるためにもなるべく公正証書にしておくことが望ましい。
信託契約は任意後見と同様、本人が認知症となる前に、本人の意思のもとで契約をしておかなければ使えない。何かが起きてから「自由度の高い信託を使いたい」と思っても、もう遅いということだ。他の認知症対策や相続対策すべてに共通することとして、前もっての準備が何よりも重要ということになるだろう。
民事信託を活用する上で最も重要な点は、信頼して財産を託せる人を選ぶことだ。信託は人選に尽きると言っても過言ではない。民事信託は、成年後見制度や商事信託に比べても受託者に与えられる裁量がはるかに大きい。それだけに、もし悪用されてしまえば、委託者や受益者が被る被害も甚大なものとなる。
前述したように受託者の契約違反については多大な民事責任が伴うが、かといって悪用される危険性がなくなるわけではない。自分が認知症になってしまった後、あるいは死亡した後にも、自分の願ったとおりに財産を動かしてくれる人を探すことが、信託を成功させる最大の秘けつだ。もしも、残念なことにそれだけの信頼を持って託せる人が見つからないのであれば、いっそ信託銀行や弁護士といったプロに依頼したり、成年後見制度を使ったりするのも一つの手だろう。もっともプロの後見人も万全ではない。最高裁判所の調査によれば、司法書士や弁護士といったプロの後見人が依頼人の財産を横領したケースも年間30件以上発生しているという。
どこまでいっても他人に財産を託す以上、リスクはゼロにはならないが、そのなかでも最適と思える方法を探し出し、実行することが自分にとっての最良の認知症対策となる。もちろん、その対策を実行する前には、家族や顧問税理士をはじめとする関係者ともよく話し合い、将来にトラブルの種を残さないようにしたい。
(2017/11/02更新)