1949年に来日したシャウプ使節団は、世界に類を見ない民主的税制を日本に構築しようと勧告書をまとめ、日本は勧告をベースに直接税を中心にした新制度をスタートさせた。だが、時代の流れとともに制度は形を変え、今年ついに間接税が首位に立つ税制への大転換を果たすことになる。10月からの消費税率10%によって、政府は約5兆6000億円の税収増を見込む。2018年度の17兆6000億円に加えると単純計算で23兆円を超え、所得税の税収を上回り税目別でトップとなる。勧告から70年、シャウプ勧告が目指した、公正、中立、簡素という近代税制の三大原則は、今後どうなっていくのか。戦後税制の変遷をあらためて振り返る。
30年前に税率3%で始まった消費税が、いつしか基幹税である所得税や法人税と肩を並べ、そして今年の秋以降は税目別で最多の税収となることが見込まれている。直接税が税収トップの座を譲るのは実に70余年ぶり。戦後税制の根幹に据えられてきた直接税中心主義は名実共に大転換することになる。
終戦後の日本の税制は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令に基づく1947年の税制改正で大きな方向転換が図られた。まず、当時は賦課課税だった所得税の税額決定のための所得調査委員会が廃止され、1887(明治20)年から60年間続いた制度が終焉した。それと同時に導入されたのが申告納税制度だ。ただこのときは、はじめに集める額を決めた予算申告納税制度であり、申告納税といいながらも賦課課税の要素を多分に含んだものであった。
それから2年後の1949年、米コロンビア大学のカール・シャウプ博士を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)が来日する。GHQは日本占領の基本路線として民主化と非軍事化を第一義に据えていたが、税務行政においても民主化に向けて動き出した。シャウプが求めたのは「日本にこれまで存在したものよりも、もっと能率的に、もっと科学的な、そしてもっと公平な税制改革を行っていく」というものだった。民主化を求めたシャウプは、お上が一方的に税率を決める戦前の間接税中心主義から、国と納税者の相互信頼に基づく申告納税制度による直接税への本格的な移行を目指した。その延長線上には、近代税制の大前提である応能負担原則を根付かせるという目的があった。
だが、「税金は賦課されるもの」という意識が根付いた当時の日本で、申告納税が可能なのかどうか。それを知るために、シャウプ使節団はみずからの足で日本中をつぶさに見て回った。そして多くの日本人と触れ合うなかで「申告納税制度の浸透は可能」との判断に至る。当時の大蔵省の平田敬一郎主税局長は、「ある程度、難しい合理的な制度でも受け入れる能力があると判断したことは間違いない」とシャウプの考えを推察している。
そこで申告納税制度の導入に向けて動き出したのだが、ここで新たに、記帳に関して「義務化する」というシャウプ側と、「義務化は困難」という日本側で議論が起きた。そして最終的に義務化するものの青色申告という特典を与えることで落ち着き、現在に至る青色申告納税制度が導入された。
シャウプ勧告の内容は1950年の税制改正で全面的に実施された。GHQの主導による世界にも稀な民主的な税制の誕生だった。だが、申告納税制度の導入は、きれいごとだけではなかった。当時のスーパーインフレーションに対応するための最も合理的な仕組みであり、さらに税務行政が弱い時代に、税務行政が動かなくても税収が確保できる制度として期待された面も大きかった。
シャウプ税制は、ほぼ勧告どおりの内容で成立した。だが、成立直後から修正が加えられ、その後の日本の独自の税制改革によって姿を消していくことになる。
日本の民主化を目指したシャウプ税制だが、当の日本の為政者サイドからは決して好意的に見られていたわけではない。最大の障壁は、政策税制をタブーとしていたことと、富の集中を嫌ったことだった。
戦後の混乱期にあり、政治も経済も正常に機能していないなかで、国が求めたのは税制の政策利用だった。シャウプは徹底した税制の民主化と公正化を求めたものの、「現実的でない」とする意見が多く上がるのは必然だった。
シャウプ税制は占領軍であるアメリカが強行に導入させたものだったが、税制改正以降は冷戦構造が顕著となり、日本にも自立を求めて講和条約に向かう空気が醸成されていく。そして初期の占領下ほどGHQが高圧的な態度を示さなくなってくると、大蔵省や政治家はその空気を敏感に感じ取り、税制においても独自色を出し始める。
まず手をつけたのが所得税改革だった。総合累進課税に分離課税を盛り込んだほか、シャウプ税制で廃止された利子の源泉分離が50%の割合で復活し、53 年度には10%にまで軽減した。銀行利子所得は55年度に完全な無税となった。また有価証券のキャピタルゲイン課税も廃止。さらに所得税の最高税率を55%から65%に引き上げ、富裕税を廃止した。
平田主税局長は、GHQの圧力が弱まってきたこの時代について「シャウプ税制に反対したいと思っていた連中が非常に力こぶを入れた」と、シャウプ税制からの脱却に勢いづいた様子を書き残している。
続いて法人税でも変革が始まる。シャウプ税制では戦前の最高税率75%を現実的な35%に引き下げたが、朝鮮戦争の特需で企業収益が上がると、政府は42%まで引き上げた。その緩和策として創設されたのが、いまに続く租税特別措置だった。当時の主な措置には、重要機械の特別償却制度、合理化機械への特別償却資産制度、試験研究機械設備への均等償却などがある。
さらに相続税では、シャウプ税制で贈与と遺産をひとつの累進課税方式としていたものを「税務執行上の難点」という理由から、現在ある相続税と贈与税の二本立てに改正した。また輸出損失準備金制度や海外に支店を作る際の特別償却制度などもこのときに創設され、政策税制花盛りといった様相を呈することになった。こののち、毎年の税制改正ごとに新たな租特が生まれ、富の偏在の是正を目指したシャウプ税制は、みるみるうちに骨抜きにされていった。
一連の〝改正〞についてシャウプは、回顧録で「政治の保守化が進んだ」とだけ記している。
シャウプ税制の柱が次々と抜かれていくなかで、最後に残った「直接税中心主義」を覆すべく、大蔵省(現財務省)と時の政府は、大型の間接税の導入に注力するようになる。
時は下って1973年のオイルショックで赤字公債を発行した大平正芳内閣は大型間接税である「一般消費税」を提案する。しかし国民をはじめ中小企業団体などの猛反発を受け、直後の総選挙で大敗。この痛手から大蔵省で消費税の話は一時タブー視されるようになる。
そのタブーを打ち破ったのが87年の第3次中曽根康弘内閣だった。選挙前には「大型間接税はやらない」と言っておきながら、大勝したとたん、「大型間接税はやらないが売上税を実施する」と述べ、公約違反として国民の怒りを買って廃案になる。そして続く竹下登内閣で、政府と大蔵省の悲願であった消費税が3%税率で実現した。中曽根内閣の副総理であった金丸信氏は「税率はゼロ%でもいいから導入しろ」とはっぱをかけていたという。これは、「税金は小さく生んで大きく育てるもの」という意味にほかならない。
そしてその思惑どおり、消費税収は導入時の89年は3・3兆円で、所得税21・4兆円、法人税19兆円とは大きく差が開いていたものの、橋本龍太郎内閣が5%に引き上げると、翌年の税収は10兆円を突破し、バブル崩壊の影響を受けて17兆円にまで下がった所得税や、法人税の11・4兆円を射程に捉えるようになる。そして所得税の税収が15兆円まで下がった2008年には法人税とほぼ並び、14年に第一次安倍晋三内閣が野田佳彦政権の決めたとおり8%に引き上げると、翌年には法人税を追い越し、所得税の17・8兆円に迫る17・4兆円にまでなった。まさに、小さく生んだ税は大きく育った。
この間、消費税を巡っては様々な議論がなされてきた。高齢化社会に対応するための財源不足という現実や、消費税が上がった分だけ法人税が下がるという矛盾。極端に中小企業の懐を痛めつける仕組みと、減らない滞納額。消費税の導入時、竹下首相は「最も平等な税」と国民の理解を求めたが、「平等」とは、明らかに「公正」や「公平」とは異なる評価だ。
消費税は30年経って10%の大台に乗るまでに成長した。そして今後、消費税は所得税や法人税を超えて日本の税収の4割近くを占めることになる。直接税から間接税への移行は今後の社会に何をもたらすのか。そもそも、公正、中立、簡素という税の基本原則は、いまここにあるのか。
日本税制史の大きな転換点となる今年、エヌピー通信社ではシャウプ勧告70周年記念出版事業を推進している。公正、中立、簡素な税制の実現、維持、発展のため、多くの人にあらためて本書を手に取っていただきたいと願う。
(2019/05/13更新)