ストックオプション(自社株購入権)の行使などにより得られた所得を申告しなかったとして所得税法違反に問われ、裁判で無罪が確定した金融大手クレディ・スイス・グループ(CSG)の日本法人、クレディ・スイス(CS)証券の元部長、八田隆氏が国に5億円の損害賠償を求めた国家賠償請求訴訟で、東京地裁の河合芳光裁判長はこのほど、「検察官の判断過程に明らかに合理性がないとはいえない」として、八田氏の請求を全面的に退けた。東京国税局が告発して東京地検が起訴した事案で初めて無罪判決を勝ち取った八田氏だが、国賠訴訟では完敗となった。
CS証券の集団申告漏れが明らかになったのは2008年11月。同社では賞与の一部をCSGのファントムストック(自社株連動型報酬)やストックオプションという株式の形で受け取る仕組みになっており、こうした株式報酬は社員が米国の系列証券会社に開設した証券口座に付与されていた。
日本では会社員の給与や賞与にかかる所得税は会社側に源泉徴収の義務があるが、外資系企業の場合、海外で支払ったものについては会社側にその義務はなく、社員自身が確定申告しなければならない。
だがCS証券ではその趣旨が社員に徹底されておらず、海外で株式報酬を受け取った約300人の社員、元社員のうち、約100人は「所得税は源泉徴収されている」と誤解して、全く申告していなかった。
八田氏もそのひとりであったが、無申告額が07年までの3年間で約3億6000万円と他の社員に比べて大きかったうえ、「意図的な所得隠しではない」との主張を崩さなかったことから、東京国税局査察部は約100人の無申告者のうち八田氏だけを東京地検特捜部に刑事告発した。
ところが告発を受理した東京地検特捜部はなかなか事情聴取に着手できず、八田氏がようやく特捜部から呼び出されたのは、告発から1年7カ月も経過した11年9月のこと。
特捜部が八田氏を起訴するには、査察部から提供された証拠では不十分で、さらに特捜部が独自に持ち出した証拠でさえ同様だったことが、のちの裁判の過程で明らかになる。つまり、この事案は初めから全くの〝無理筋〞だった。
八田氏は査察部の事情聴取の段階から脱税の意図を全面否認。これに加えて、①CS証券で税務調査された約300人のうち約100人が無申告だったことに鑑みれば、事態の責任は源泉徴収しなかった会社側にあった、②米国のゴールドマン・サックス証券では、海外で付与する株式報酬について社員の申告漏れを防止するために源泉徴収している――などと主張した。
東京地検特捜部は11年12月、07年までの2年間の所得税約1億3200万円を免れたとして、ようやく八田氏の在宅起訴に漕ぎ着ける。だが1審の東京地裁(佐藤弘規裁判長)は13年3月、「脱税の認識があったと認めるには疑問が残る」として、八田氏に対して無罪判決を言い渡した。
さらに、検察側が控訴した2審でも、東京高裁(角田正紀裁判長)は検察側の取り調べ請求を全て却下し、即日結審。14年1月には「被告人が積極的な所得秘匿工作を行った事実が認められない」などと、1審よりさらに踏み込んだ事実認定で控訴を棄却したため、検察側は上告を断念、八田氏の無罪が確定した。
東京高検からは「明確な上告理由が見当たらないので、上告はしないこととした」との一文が書かれた書面が出されたのみで、八田氏に対する謝罪はなかった。
14年5月、八田氏は「捜査権力には冤罪の原因を解明し、フィードバックする機能が欠如している」として、5億円の国家賠償請求訴訟を提起した。当初の主な目的は「どのような理由で起訴に至ったのかを明らかにする」ことだったが、審理の争点は次第に「1審の無罪判決に対する検察の控訴は適法だったのか」に絞られていった。
最高裁の判例によると「刑事裁判では1審で取り調べた証拠のみで控訴審を逆転有罪とすることはできず、控訴するには新たな証拠の取り調べを請求し、それが採用される合理的な見通しがあることが必要」とされている。ところが八田氏の2審公判では、控訴した検察側が取り調べ請求した証拠はおよそ採用の余地のないものばかりで、東京高裁は即日結審。このため東京地検の控訴の妥当性が争点となり、1審で公判を担当した廣澤英幸検事の証人尋問が開かれる異例の事態となった。
だが判決で河合裁判長は、控訴の違法性について「控訴時の各種の証拠を総合勘案すると有罪と認められる嫌疑があったと言えるので、控訴審で有罪判決を得る見込みがあるとの検察官の判断に明らかに合理性がないとは言えない」と認定。告発と起訴にも合理性があるとして、八田氏の主張をすべて退けた。
判決後の会見で八田氏は「検察側の控訴時と起訴時の判断基準が同じというのは納得できない。検察側の控訴が認められているのは日本の司法の特殊性で、これを正しい方向に変えたい」と話し、控訴する方針を明らかにした。
事件発生当初から取材し、姉妹紙『納税通信』で「元国税記者が綴る税金事件帖」を連載するジャーナリストの田中周紀氏は、「『判決に不満があれば、なんでも自由に上訴できる』という、裁判のルールを無視した検察の姿勢を改めさせるような大きな判決文を書くことは、1審の裁判所にはやはり無理。上訴することで、目的を達成できる可能性は出てくるだろう」と話している。
(2018/05/02更新)