萬翠荘(旧久松家別邸)

愛媛・松山市(2014年2月号)



 伊予松山。「萬翠荘」(ばんすいそう)は松山城の城山の南麓に位置するフランス・ルネッサンス風の洋館建築だ。大正11(1922)年、旧藩主の嗣子で、伯爵の爵位に就いていた久松定謨(ひさまつ・さだこと)が別邸として建築したもの。

 

 設計は、この後に愛媛県庁舎本館なども手がけることになる建築家、木子七郎が担当。定謨伯の長男で、次代の久松家当主となった久松定武(貴族院・参議院議員を経て昭和20年から5期・20年、愛媛県知事を務めた)が「萬翠荘」と命名した。

 

 松山で最も古い鉄筋コンクリート造りの建築物で、地下1階・地上2階建て、建築面積は428・78平方メートル。屋根は寄棟造のスレート・銅板葺きで、中央部分には二段勾配のマンサード様式を取り入れ、東南側には尖塔を設けて外観に変化をもたせているのが特徴となっている。

 

 正面の車寄を入ると、建物内部は中央が階段のある広間、東側は表がサロン(謁見の間)、裏手が食堂(晩餐の間)となっており、西側には執事室、配膳室など内向きの部屋が配置されている。玄関の床には大理石が、玄関ホールの柱には岡山産の万成石(通称「紅桜」)が使用されている。正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本モノ。各室には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)が置かれているほか、水晶のシャンデリアや色彩豊かなステンドグラスなど、室内装飾にも極めて質の高い意匠が施されている。

 

 踊り場の大窓に広がる海の風景は、グラデーションを使用した繊細な色彩のステンドグラスで、それまでハワイ製ではないかと考えられていたが、愛媛県による平成22(2010)年の調査の結果、日本でのステンドグラス作家の草分け的な存在のひとりと言われる木内真太郎が制作したものであることが判明した。

 

 竣工直後には、当時皇太子だった昭和天皇が松山を訪問し、ここへ数日間滞在したという。もともと、この来訪に間に合わせるために、完成を急がせたというエピソードも残っている。また、大正末期から昭和初期にかけては皇族や各界名士の社交場となっていた。

 

 戦時中の空襲による戦禍は免れたものの、全国に残っていたほかの洋館建築と同様、終戦後は米軍に接収されてしまう。昭和22(1947)年に接収が解除されると松山商工会議所として使用され、昭和27(1952)年からは松山家庭裁判所として裁判官室や事務局などが入居した。昭和29(1954)年からは愛媛県が管理するようになり、この年の8月に県立郷土芸術館として開館、昭和54(1979)年には県立美術館分館へと名称変更している。

 

 旧伊予松山藩の藩主、久松(松平)家は、寛永12(1635)年に15万石でこの地へ入封してから明治維新まで続いた徳川幕府の親藩。旧藩士の家に生まれた正岡子規は、帰郷した際にそうした昔を懐かしみ「春や昔十五万石の城下かな」と詠んだ。その句碑がJR松山駅前に建っている。

 

 久松定謨伯爵は、陸軍駐在武官としてフランスでの生活が長かったひとで、青年時代にもサンシール陸軍士官学校で学ぶなど、私費留学生だったころから長期間滞在していた。久松家代々の居城である松山城の山麓に、純フランス風の別邸を建てたのは、赴任当時を懐かしんだためでもあるだろう。このため「萬翠荘」は、当時のヨーロッパ人でも驚くほどのフランス風の美しい建造物となっている。

 

 設計を担当した木子七郎は宮内省内匠寮技師の四男として京都に生まれ、第四高等学校(金沢)を経て東京帝国大学で建築を学んだ。卒業後は大阪を拠点に数多くの作品を世に送り出した建築家として知られる。木子の妻であるカツ夫人が、たまたま愛媛県出身の実業家、新田長次郎(現在の「ニッタ」創業者)の娘だったという縁で、愛媛県では県庁舎本館をはじめとする数多くの名建築を残した。「萬翠荘」のほかにも「関西日仏学館」(設計監督。設計原案はフランス人のレイモン・メストラレ、昭和11年完成、京都市左京区に現存)など、フランスと関係のある建築作品を手がけ、昭和12(1937)年には仏国からレジオンドヌール勲章を授与されている。

 

 「萬翠荘」の敷地は、旧松山藩の家老の屋敷跡地で、明治28(1895)年に夏目漱石が英語教師として松山中学へ赴任してきた際の下宿「愛松邸」があった場所でもあるという。昭和4(1929)年に建設された県庁舎本館の費用は当時の金額で約100万円だったとされているが、その7年前の大正11年に竣工した「萬翠荘」の建設費には約30万円が投じられたとされている。

 

 いかに豪壮な別邸といえども、県庁舎本館に比べればはるかに小規模だ。軍人だった定謨伯は大正9(1920)年に待命となり陸軍中将に昇進。これを最後にこの年の暮れ、予備役に編入された。つまり「萬翠荘」は、伯爵が現役を退いたあとで完成したことになる。引退後の別邸に、それだけの巨費を投じるとは、さすがに旧藩主。お殿様の面目躍如といえるだろう。

(写真提供:萬翠荘)