大阪・泉南地域に位置する田尻町は、住民約9千人の小さな町だ。面積は約5キロ平方メートルに過ぎないが、大阪湾を臨むこの町では古くから埋立工事が盛んに行われてきたため、町域は徐々に広がっている。
大阪湾の沖合に浮かぶ関西国際空港も、その中央部は田尻町に属している。町の面積の3分の2を占める「関空」からの税収が財政を支えており、全国の自治体のうち49団体しかない地方交付税の「不交付」団体となっている。
現在では「空港の町」として知られる田尻町だが、大正時代以降は紡績業で栄えていた。「田尻歴史館」は、明治から大正時代を通じて関西繊維業界の中枢を担った実業家、谷口房蔵が別邸として建てたものだ。
谷口は文久元(1861)年、この町で生まれた。34歳の時に、たまたま株を所有していた明治紡績の経営を再建したことがきっかけとなり、それ以降は次々に中小の紡績所を建て直していくことになる。明治33(1900)年には大阪合同紡績を創立。当時の「5大紡績企業」のひとつに数えられるまでの大会社へと育て上げた。
やがて「綿の国から生まれた綿の王」と称されるほど紡績業で巨万の富を築いた谷口は、田尻町にも吉見紡績を設立。インドから仕入れた原綿を受け入れるため、田尻川河口の土砂を深く掘り下げて港(現在の田尻漁港)を築くとともに、港湾設備や道路なども整備したほか、鉄道「阪和線」(旧阪和電気鉄道)の導入にも尽力した。また、人材育成の観点から教育活動にも熱心に取り組み、私財を投じて幼稚園・小学校などを支援、その費用を負担したという。財界・業界活動、文化事業にも積極的で、大阪倶楽部や綿業会館の設立に関与したほか、日本棋院の創設にも貢献した。
谷口がこの地に別邸を構えたのは、「郷里にも納税するため」だったとされている。紡績工場を設立して地元の雇用を拡大するとともに、港湾・道路整備などの〝公共工事〞にも私財を投じたうえ、自身の税金を納めてまでも、町の発展に貢献しようとしたわけだ。
美しいステンドグラスが印象的なこの別邸は、大正11(1922)年に建てられたもので、紡績会社の研修・宿泊施設としても使用された。シンボルとなっている煉瓦造りの洋館は、19世紀末から20世紀の初頭にかけてドイツで展開された美術傾向「ユーゲント・シュティール」(青春様式)の意匠様式を随所に取り入れている。洋館から続く2階建ての和館には茶室も設けられており、前面には日本庭園が広がる。
だが、これほどの建築物であるにもかかわらず、設計者の名前が判然としていない。有力な説としては、大阪を中心に活躍した建築家、安井武雄(1884〜1955年)による設計の可能性が指摘されている。安井は大阪瓦斯ビルヂング(大阪市中央区)の「南館」を手がけたことで知られ、大正13(1924)年には、谷口が創設に関与した大阪倶楽部も設計している。
谷口は昭和4(1929)年に68歳で死去。その遺言により、谷口財団(谷口工業奨励会四十五周年記念財団)が置かれ、現在の貨幣価値で50億円ともいわれる「壱百萬円」が提供された。谷口財団では約70年間にわたり、研究者に対して助成金を出し続けた。
この邸宅は谷口の没後、民間企業や個人の所有を経て、平成5(1993)年には田尻町が取得し、一般公開されるようになった。
(写真提供:田尻歴史館)