青森県西部、津軽平野にまで桜前線が北上してくるのは、例年、ゴールデンウィークと重なる頃だ。このため、弘前公園で開催される「弘前さくらまつり」には、全国から多くの観光客が押し寄せる。
2011年、築城400周年を迎えた弘前城。津軽家10万石の居城が置かれた弘前公園では、遅い春の「さくらまつり」だけではなく、秋には「菊と紅葉まつり」、そして2月中旬には「雪燈籠まつり」が開かれる。
弘前公園に隣接するかたちで藤田記念庭園がある。約2万1800平方メートル(約6600坪)の広大な庭園内に建つ洋館、和館などの歴史建築は、いずれも国の登録有形文化財。弘前出身の実業家、藤田謙一(1873〜1946年)が大正8(1919)年、郷里に別邸として建てたものだ。
東京から庭師を招いてつくらせた庭園は、高低差13メートルの崖地をはさんで高台部と低地部に分かれており、高台部は〝津軽富士〞として知られる県内最高峰の岩木山を借景にした洋風庭園、低地部は池泉廻遊式の日本庭園となっている。
藤田謙一は明治6(1873)年、弘前藩士だった明石永吉の次男として生まれ、5歳のときに親戚の藤田正三郎の養子となった。藩校「稽古館」の流れを汲む東奥義塾に学ぶが中退。明治24(1891)年、上京して明治法律学校(現在の明治大学)に入学。卒業後は官途に就き、大蔵省専売局に勤務した。
明治34(1901)年、28歳で役人生活に終止符を打ってからは実業界で活躍。「天狗煙草」で知られる岩谷商会の支配人を振り出しに、東洋製塩(台湾塩業)専務、鈴木商店顧問、東京毛織専務などを歴任。大正元(1912)年には、映画会社4社の統合による「日本活動写真(日活)」設立の音頭をとり、のちに同社の社長となった。また、西武グループの総帥である堤康次郎に招かれ、千ヶ滝遊園地や箱根土地の社長にも就任した。
大正15(1926)年には「東京商業会議所」(東京商工会議所の前身)の会頭となり、日本商工会議所の会頭にも就任した。昭和3(1928)年、55歳で勅撰により貴族院議員となり、国際労働機関(ILO)の総会にも資本家代表として出席している。その一方で帝国火災保険の社長も務めた。
この邸宅が建てられた大正8年当時、藤田は46歳。財界人としてまさに絶頂期を迎えたころだ。お城の〝隣〞に7千坪近い土地を確保し、広大な庭園と豪壮な別邸を築くことで、成功の象徴としての財力の大きさを誇示したかったのだろう。
木造モルタル2階建ての洋館は、玄関先まで長くつけられた「反り」が特徴的な「袴腰屋根」や、階段吹抜け部分の八角塔が印象的なデザイン。青森の近代建築の担い手として代表的な存在だった大工棟梁、堀江佐吉(弘前出身、1845〜1907年)の息子たちによるもので、設計は六男の金造、施工は長男の彦三郎が手がけた。木造平屋建ての和館は昭和12(1937)年、弘前市と隣接する板柳町に藤田家の本邸として建てられたものを、昭和36(1961)年にここへ移築した。
藤田謙一は昭和21(1946)年、73歳で死去。この庭園と別邸は藤田の死後、弘前相互銀行(みちのく銀行の前身)の頭取だった唐牛敏世に譲渡され「弘前相互銀行倶楽部」(みちのく銀行倶楽部)として開放されてきた。しかし、昭和54(1979)年に唐牛が死去すると、その後はしばらく放置されたままの状態になっていたという。昭和62(1987)年に市制施行百周年記念事業の一環として弘前市が買収し、復元整備して平成3(1991)年からは現在のかたちで開園している。
弘前城の「さくらまつり」に足を運んだら、その〝お隣〞の旧藤田家別邸(藤田記念庭園)にも、ぜひ立ち寄ってみたい。
(写真提供:一般財団法人 弘前市みどりの協会)