旧華頂宮邸

神奈川・鎌倉市(2013年3月号)



 由比ヶ浜の潮騒をかすかに乗せた春一番が、若宮大路の段葛を吹き抜けていく。ここは、古都、鎌倉――。

 

 中心部から金沢街道を東へ約2・5㌔。「鎌倉市浄明寺」は、杉本寺と朝比奈の切り通しに挟まれた閑静な住宅街。この街の地名の由来にもなった「浄明寺」は、臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、鎌倉五山のひとつにも数えられる名刹。正式には「稲荷山浄妙廣利禅寺」という。「旧華頂宮邸」は、北東に胡桃山、南西に衣張山が位置する「浄明寺」の地に、瀟洒な姿で建つ昭和初期の洋館建築だ。

 

 華頂宮(かちょうのみや)は、幕末に朝廷の国事御用掛などを務めた伏見宮邦家親王(伏見宮第20代・23代)の第12王子、博經(ひろつね)親王を始祖とする宮家。伏見宮は17男・15女、じつに総勢32人という子宝に恵まれたひとで、1947(昭和22)年に皇籍離脱した旧皇族の11宮家は、すべてこの邦家親王が源流となっている。

 

 華頂宮の始祖、博經親王は1852(嘉永5)年に浄土宗の総本山、知恩院(京都)の門跡となったひとだが、1868(慶応4)年には勅命によって復飾(還俗)し、華頂宮家を創設した。「華頂」の宮号は、知恩院がその昔、四条天皇(1231〜1242年)から下賜されたという「華頂山知恩教院大谷寺」の山号にちなんで称したもの。

 

 華頂宮家は4代続いたが、1924(大正13)年に断絶。1926(大正15)年、3代博恭王(伏見宮から相続。後に伏見宮を継嗣)の第3王子で、4代博忠王の実弟でもある博信(ひろのぶ)王が臣籍降下して「華頂」の姓を賜り、授爵して侯爵家となった。

 

 「旧華頂宮邸」は1929(昭和4)年に、この華頂博信侯爵の邸宅として建てられたもの。つまり、厳密には「旧華頂侯爵邸」と呼ぶほうが正しいことになるが、宮家・侯爵家の歴史的な沿革から、いまも通称的に「宮邸」と呼ばれている。

 

 装飾された重厚な鉄扉の門を抜けると、芝生のアプローチが美しい前庭が続く。中央には石造りの半円形テラスが置かれ、かつては庭園内に池が切られていた面影も残す。とんがり屋根と煙突のデザインが印象的な外観は、当時の洋館建築に多くみられるハーフティンバースタイルの端正なプロポーション。柱や梁などを外部に出したまま、壁面を土石材や漆喰などで充填している。当時流行していた長手のスクラッチタイルや、幾何学模様が美しいステンドグラスの窓装飾を多用するなど、昭和初期の洋館建築の典型的な意匠が随所にちりばめられている。

 

 侯爵家では、建築当初から常住の邸宅として使用したといわれているが、侯爵夫妻が実際に住んだのはわずか数年のみで、その後はたびたび所有者が代わり、1996(平成8)年には鎌倉市が取得した。歴代の持ち主たちが、思い思いに手を加えたためなのか、統一感のある外観に比べると、内装の意匠や色彩には、どことなく違和感が漂う。マントルピースの置かれた部屋は、その暖炉も含め、壁も天井も真っ白だが、隣室は開口部の大きな窓のほかは暗褐色の色調といった具合で、これがかえって、この邸宅が持つ独特の雰囲気を醸し出しているといえる。

 

 華頂博信侯爵当時、各部屋がどのように使われていたのかは不明だという。また多くの洋館建築がそうであったように、この邸宅も戦後は進駐軍に接収されたようだが、その頃の詳しい史料なども残っていない。

 

 さすがに、古都の歴史は奥深い。鎌倉には、歴史ミステリーの種は尽きないが、旧華頂宮邸を訪れることで近代史の断片に思いを馳せてみるのも、鎌倉散策の愉しみ方のひとつではないだろうか。

 (写真提供:鎌倉市)