旧神谷伝兵衛稲毛別荘

千葉・千葉市(2016年4月号)



 千葉市稲毛区。かつては眼下に海が広がり、潮の香りが漂う緑の松林に囲まれたリゾート地として知られた。この洋風建築は、「日本のワイン王」と呼ばれた神谷伝兵衛が晩年に愛した海辺の別荘。大正6年(1917)に着工し、翌7年(1918)に竣工したものだ。

 

 鉄筋コンクリート造・半地下地上2階建で、キングポストトラス(中央に束のある洋風小屋組)の屋根架構が見るひとに強い印象を与える。1階ピロティ正面にはロマネスク様式風の5連アーチが並び、吹き放ちの柱廊が配置されている。白色タイルで仕上げられた外壁からは、昭和初期に導入されるモダニズム建築への変化がうかがえる。背後が海岸段丘だったことから玄関はバルコニーに設けられている。このため扇状の階段は、庭とバルコニーとをつなぐだけでなく、玄関へのエントランスも兼ねている。

 

 玄関のシャンデリアを吊り下げる円形装飾にはブドウが描かれているほか、2階の床柱にも葡萄の巨木が用いられ、天井を竹格子で組んで部屋全体を葡萄棚に見立てるなど、随所にワイン王としての意気込みを感じさせる意匠が施されている。

 

 建物の正面左手にはアクセントとなる丸窓が、右側面には半円状に突出した出窓(眺望台)が配置されている。裏手に回ると、海岸段丘を削った土地であることがよく分かる。このため高台から見下ろすかたちとなる側には窓があるが、段丘側にはほとんど窓が設けられていない。窓の代わりの換気口として、暖炉の煙突が外付けされている。玄関を入った正面には優美な曲線を描く階段を配置。2階は本格的な書院造の和室で、その天井は豪華な2段の折り上げ格天井となっている。1階の洋間とはまったく趣の異なる〝和洋折衷〞の内装や、繊細なデザインで仕上げられた室内装飾の数々が、施主の遊び心を感じさせる。

 

 神谷伝兵衛は東京・浅草で「電気ブラン」や「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」などの洋酒を普及させるとともに、フランスから本格的なワイン製造技術を導入したことで知られる明治・大正期の実業家。安政3(1856)年、三河・松木島村(現在の愛知県西尾市一色町)の名主の6男として生まれたが、家業が衰えたため8歳で酒樽造り職人に弟子入り。次いで姉の嫁ぎ先の商家で見習いとして働き、11歳で商人として独立したという。

 

 独立後は綿の仲買人や雑貨の行商などをしていたが、16歳のときに事業に失敗して全財産を失う。明治6(1873)年には兄の勧めで横浜のフランス人商店「フレッレ商会酒類醸造場」で働くようになり、ここでワインと出会うことになる。

 

 病気で衰弱し、命の危険さえあったときに、フランス人の主人から飲むようにいわれた葡萄酒で体調が回復。その滋養を知った伝兵衛は19歳で東京・麻布の天野酒店に移り酒の引き売りをはじめる。ここで蓄えた資金を元手にして、明治13(1880)年には日本初のバーとなる「みかはや銘酒店」(現在の神谷バー)を浅草で開業。輸入葡萄酒を原料とする日本人好みの甘口ワインは評判となり、明治18(1885)年に「蜂印葡萄酒」、翌19年には「蜂印香竄葡萄酒」を売り出して海外でも高い評価を受けた。商標登録した商品名の「香竄」は、多芸・多趣味のために名主の家を傾けてしまった父の雅号に由来するという。

 

 明治31(1898)年、念願の葡萄酒づくりに着手するため茨城県牛久市の原野を開墾して神谷葡萄園を開園。明治36(1903)年にはワイン醸造場「牛久シャトー」(現在のシャトーカミヤ)を開設した。また、明治45(1912)年には浅草の店を改装して「神谷バー」を開業。さらに、三河鉄道の創立にも取締役として参画し、大正5(1916)年に同社が経営危機に陥ると社長に就任。自ら莫大な資金を投入して経営再建を果たし、生まれ故郷の鉄道を守った。

 

 「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」は、千葉市内に残る鉄筋コンクリート造の建築物としては最も古く、全国的にも初期のものといえる。千葉市では平成元年8月から平成2年3月にかけて保存改修整備を実施。現在は「千葉市民ギャラリー・いなげ」として開放されており、多くの市民に利用されている。

(写真提供:千葉市民ギャラリー・いなげ)