埼玉県の南西に位置する入間市。人口約15万人のこの街は、狭山茶の主産地として全国的に知られているが、明治から昭和初期にかけては製糸業でも栄えた。「旧石川組製糸西洋館」は往時の繁栄ぶりを現在に伝える代表的な歴史建築。
石川組製糸は明治26(1893)年にこの地で操業を開始した製糸会社で、当初はわずか20釜の座繰製糸(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸気力を利用した機械製糸に移行し、日清・日露戦争の戦時景気によって瞬く間に経営規模を拡大した。最盛期の大正期には現在の入間市に3工場、狭山市に2工場、川越市に1工場と、埼玉県内(旧入間郡内)だけでも6工場を配置したほか、福島県、愛知県、三重県にも各1工場を持ち、昭和の初めには生糸の出荷高で全国6位を記録するなど国内有数の製糸会社に成長。さらに海外とも盛んに取引し、ニューヨークの五番街にも事務所を設置していた。
「旧石川組製糸西洋館」は大正10(1921)年、石川組製糸の創業者である石川幾太郎(いしかわ・いくたろう)によって会社の迎賓館として上棟された。木造2階建ての西洋風建造物で、化粧煉瓦の外壁と変化のある屋根窓が印象的な外観となっている。建物内部は、川越の宮大工の手による繊細な装飾が随所にみられ、意匠を凝らした特注の調度品が数多く配置されている。2階に和室が1室あるほかはすべて洋室で、地下室も含めた部屋数は20室を数える。
この「西洋館」は、高級生糸製品を海外へ輸出していた石川幾太郎が、取引先であるアメリカの貿易商を日本へ招く際に「豊岡(入間の旧町名のひとつ)をみくびられてはたまらない。超一流の館をつくって迎えよう」と決意して建てたもの。東京帝国大学で建築を学んだ室岡惣七(むろおか・そうしち)に設計を依頼し、宮大工の関根平蔵(せきね・へいぞう)が施工を担当した。
特徴的な屋根はヒップゲーブル(半切妻造)の洋瓦葺。平屋建ての「別館」の外壁にも本館と同じ化粧煉瓦が用いられているが、こちらの屋根は寄棟造となっている。
石川幾太郎(1855〜1934年)は、安政2年に黒須村(現在の入間市黒須)で生まれた。六男三女の長男で、明治12(1879)年には代々続いた茶園を継いで製茶仲買商となったが、ほどなく製糸業へ転じ、一代で石川組製糸を全国屈指の大会社に発展させた。地元の実業界でも活躍し、入間地方の産業振興の担い手として、一時は武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の社長にも就任している。
また、弟の石川和助がキリスト教の熱心な信者だったことから、これに導かれるかたちで自身もキリスト教に入信した。このことが石川家の「家憲」や工場経営の理念にも大きな影響を与えたとされている。紡績工場で働く女性の過酷な労働の実態を記録した細井和喜蔵の『女工哀史』が改造社から刊行されたのは大正14(1925)年のことだが、これとほぼ同じ時期、石川組製糸では「女工」の教育に積極的に取り組むなど、当時としては先進的な職場環境を整えていたという。
また、大正12(1923)年には資金1万円と用地1千坪を寄付して「武蔵豊岡教会」を建設。アメリカ人建築家でキリスト教徒伝道者のウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したこの教会建築は、現在もその姿を残している。
〝社員教育〞を実践するほどの優良企業として知られていた石川組製糸だったが、関東大震災で横浜の倉庫が全焼。さらに、生糸に代わるレーヨンなどの化学繊維が出現したことや、昭和恐慌の影響もあって深刻な経営不振に陥り、昭和12(1937)年には解散を余儀なくされてしまう。
「西洋館」はその後も石川家が所有。戦後はGHQに接収されたため、手を加えられてしまった箇所もあるが、全体的には建築当時からの様子をとどめている。部屋ごとに特色のある天井や床の造形、照明器具をはじめ、玄関ホールの大理石製の暖炉、1本の木材からつくられた階段の手すり、海外から取り寄せた特注の調度品などは、石川組製糸が製糸業で蓄えた富の大きさを物語っている。昭和33(1958)年に石川家へ返還され、現在では入間市の所有となり、毎年春と秋の数日、内部が公開されている。
(写真提供:入間市)