千鳥通う白砂青松――。穏やかな波が静かに打ち寄せる白い砂浜、そして「鳳凰の舞うがごとき」と形容された緑の老松。「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子=『万葉集』巻八・一四一八)、「荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行く我を」(柿本人麻呂=同巻三・二五二)など、万葉の歌人にも数多く詠まれてきた東播海岸。とくに「舞子の浜」は、明治天皇が7度も行幸するほどに愛した名勝として知られる。
明治33(1900)年、兵庫県ではこの景勝地を都市公園として整備。初の県立公園となる「舞子公園」として開園した。旧武藤家別邸洋館は現在、この公園内に位置している。
明治21(1888)年、明治天皇の愛した舞子海岸に有栖川宮が別邸を設けると、その周辺には政財界人の別邸も建築されるようになった。この洋館もそのひとつで、明治40(1907)年に実業家・武藤山治の別邸として建てられたもの。
武藤は慶応3(1867)年、尾張藩の領内で代々庄屋を務める農家の長男として生まれ、慶應義塾に学んだのちアメリカへ留学し、帰国後は東京・銀座で「新聞広告取扱所」を起業した人物。また、雑誌『博聞雑誌』を発刊したほか、英字新聞社の「ジャパンガゼット新聞社」で翻訳記者としても活躍した。さらに、福沢諭吉の紹介で後藤象二郎の知遇を得てその秘書となると「大同団結運動」にも参加。しかし、明治政府の弾圧によって自由民権運動が衰微すると、明治21年にはドイツ人の経営する「イリス商会」に就職して陸海軍向けの武器・弾薬や軍需物資を取り扱った。
言論人・民権活動家、そして実業家としてのマルチな活躍ぶりが政財界で知られるようになった武藤は明治26(1893)年、三井銀行へと転じる。神戸支店副支配人を振り出しに要職を歴任し、後年「三井中興の祖」と高く評価されることになる中上川彦次郎のもとで経営改革の一翼を担ったほか、益田孝や早川千吉郎といった三井財閥歴代総帥の側近としても活躍。首脳部に重用された武藤は入行の翌年、明治27(1894)年には早くも銀行から出向するかたちで鐘淵紡績兵庫分工場へ支配人として送り込まれた。
鐘紡に移籍後は「職工優遇」を最善の投資と考え、「経営家族主義」「温情主義」を実践。同時に中国への輸出を推進してシェアを拡大、日清戦争の特需によって急速に膨張する市場で大成功を収め、業績を飛躍的に改善させた。昭和5(1930)年に鐘紡の社長を正式に辞任するまでの通算34年間、会社経営に携わり続け〝紡績王〞の異名をとった。
この洋館は日露戦争後の好況期に、紡績王・武藤の別邸として建てられたもの。設計はのちに大蔵省営繕管財局工務部長として国会議事堂の建設を統括することになる建築家・大熊喜邦(当時は横河工務所に所属)が担当した。寄棟や切妻を組み合わせた複雑な外観が印象的なコロニアル様式の木造2階建て。海側に広く張り出した円形平面のベランダ(1階部)・バルコニー(2階部)や、随所に質の高い意匠が施された天然スレート葺の屋根、下見板張りの外壁などが大きな特徴となっている。
武藤は大正13(1924)年の総選挙に、財界人らで結成した「実業同志会」の会長として出馬。武藤を含む11人が、「政界浄化」を掲げるこの会から立候補して当選した。以後、衆院議員を3期務め昭和7(1932)年に政界を引退したが、その後も言論人・政治家として政商の暗躍や政・財・官の癒着構造を次々に暴くとともに、「帝人事件」などの贈収賄疑惑も厳しく追及。昭和9(1934)年、鎌倉の別邸を出たところで無職の男に銃撃され死亡した。犯人も犯行直後に拳銃自殺している。
武藤が凶弾に倒れた後、この洋館は昭和12(1937)年に鐘淵紡績へ寄贈され、「鐘紡舞子倶楽部」の名称で従業員の厚生施設として利用されていたが、明石海峡大橋建設に伴う国道2号線の拡張工事のため、平成7(1995)年には和館とビリヤード室が取り壊されてしまい、洋館だけが隣地へ移築された。
平成19(2007)年にはカネボウ(当時)から兵庫県へ寄贈され、舞子公園内の現在地へ再移築するとともに、ビリヤード室を外観復元した管理棟も建設された。
この工事では、建造材の大部分と外装材の一部が新しい材料で再現されたが、建具や内装の仕上げ材は建築当初のものが使用されている。
平成7年には神戸を大震災が襲ったが、この洋館はたまたま再移築の準備で解体中だったため、ステンドグラスや家具などの調度品も当時のものがそのまま残っている。
(写真提供:公益財団法人 兵庫県園芸・公園協会)