福岡県中部。炭鉱で栄えた筑豊には、「筑豊御三家」と呼ばれる地方財閥がある。麻生家、貝島家、そして安川家を指す。いずれも炭田採掘事業を基盤として財を成したものだ。飯塚の麻生家は、庄屋だった麻生太吉(麻生太郎財務相の曾祖父)が採炭事業で成功。直方の貧農の家に生まれた貝島太助は炭鉱夫から身を起こし「筑豊の炭鉱王」と呼ばれるまでに至った。
筑豊御三家のひとつに数えられる安川家は、福岡藩(黒田家)の下級武士だった安川敬一郎を創始者とする。その次男、健次郎は、敬一郎の兄の養子となり松本姓を名乗るようになる。明治3(1870)年生まれの松本健次郎は21歳で渡米。ペンシルベニア大学に留学し、財政経済学を学んだ。帰国後は実父とともに石炭業の「安川松本商店」を創設し、明治40(1907)年には炭鉱経営で得た莫大な資金を投じて技術者養成のための「明治専門学校(現在の九州工業大学の前身)」を設立した。
北九州市戸畑区に残るこの邸宅は、松本健次郎が自宅兼迎賓館として建てたもの。明治41(1908)年の着工から3年をかけて同44年に竣工した。緑の豊かな丘陵の地形をいかし、約1・3ヘクタールにもおよぶ広大な敷地に洋館と日本館を配置している。
洋館は、明治時代を代表する近代建築の巨匠、辰野金吾を招いて設計を依頼したもの。日本館は、辰野のもとで中央停車場(東京駅丸の内口赤レンガ駅舎)や日銀本店などの設計に携わった建築家、久保田小三郎が手がけた。いずれも木造二階建てで、洋館の一階には広間を中心に応接室、主人書斎、客室、食堂などが配置され、二階には寝室と子供部屋が並び、和室も設けられている。日本館には中央書院と大座敷が雁行するかたちで配され、洋館とは廊下でつながっている。
洋館は外観・室内の意匠、家具ともにアール・ヌーボー様式のデザインで統一され、随所にその特徴である美しい曲線がみられる。日本の建築に本格的なアール・ヌーボー様式が導入された先駆例とされており、家具にまでこの様式を徹底採用した一貫性は、他に例をみない。一方の日本館は、これとはまったく対照的な純和風建築で、数寄屋造りの重厚感あふれる佇まいとなっている。金比羅山を背景にした広大な庭園では、季節ごとに異なる樹相が観賞できる。建物は昭和47(1972)年に、煉瓦造りの蔵2棟は昭和57(1982)年に、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
炭鉱経営で大成功を収めた松本健次郎は、実父の安川敬一郎とともに明治紡績、安川電機、九州製鋼、黒崎窯業などの設立に携わったほか、帝国鋳物や若松築港などの社長も務め、「安川財閥」をさらに発展させた。昭和初期からは活動の場を中央に移し、日本工業倶楽部理事、石炭統制会会長、日本経済連盟会会長、貴族院勅撰議員などの公職を歴任した。昭和32(1957)年には財界活動の第一線から引退。同38(1963)年、93歳で死去。
この邸宅は戦後、進駐米軍に接収され昭和26(1951)年までは独身将校宿舎として使用されていたが、翌27年に北九州経済人の集まりである西日本工業倶楽部が設立されると同時に、松本家から倶楽部へ土地・建物が譲渡され、以降は「倶楽部会館」として利用されている。
(写真提供:一般社団法人 西日本工業倶楽部)