旧島津公爵邸

東京・品川区(2017年8月号)



 ひと目でそれとわかるジョサイア・コンドル設計の威風堂々とした洋館建築。今回の「歴史建築散歩道」は満を持して、大正ロマンの面影を色濃く残す旧華族の大邸宅「旧島津公爵邸」をご案内する。

 

 東京・品川区東五反田。江戸のころ、仙台藩主伊達家の下屋敷があったこの高台は「袖ヶ崎」と呼ばれていた土地。明治以降は「城南五山」のひとつに数えられ、島津山の呼称で知られる都内屈指の高級住宅地となっている。そのため、この洋館の東京都指定有形文化財(建造物)としての登録名は、かつての地名から「旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館」とされている。

 

 袖ヶ崎は元文2(1737)年から伊達家の下屋敷地となっていた。その敷地面積は2万2670坪という広大なもので、明治初年に旧薩摩藩主島津家の所有地となった。明治11(1878)年島津家が東京本邸をこの地に移す際に和館が建設され、翌年完成した。

 

 この洋館は30代当主、島津忠重公爵(1886〜1968年)が和館に替えて建てたもの。明治新政府が招聘したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手で設計され、建物本体は大正4(1915)年に竣工。その後は薩摩出身の洋画家、黒田清輝の指揮によって調度や内装が施され、大正6(1917)年に落成した。

 

 また、この年の5月には大正天皇・皇后が行幸啓しており、それに供奉した寺内正毅首相をはじめ、松方正義、牧野伸顯、山本権兵衛、東郷平八郎、樺山資紀ら多数の政府高官・陸海軍将官もこの邸宅を訪れた。さらに島津家ではその3日後にも約2千人の名士を招待し、新築落成披露を兼ねた盛大な園遊会を開催したという。

 

 古典様式を基調とした意匠と、当時流行した白タイルを用いた外装が特徴的。玄関の車寄せはトスカナ式(溝彫りを持たないドリス式)の巨大柱を配した重厚なもの。これとは対照的に、南側の庭園に面したバルコニーは列柱廊の一部を円弧状に張り出させた軽やかな表現となっている。石柱は1階がトスカナ式、2階がイオニア式を取り入れており、バルコニーを含めた印象はバロック式の要素を持つが、全体ではルネサンス様式の洋館であると表現できるだろう。

 

 建物内部にも随所に凝った意匠が施されている。屋内造作の主人公ともいえる大階段室にはイオニア式の柱頭を持つ白い柱が据えられており、これを中心にして、島津家の家紋をあしらったステンドグラスや石造のマントルピース、天井の繊細な彫刻などがすべて良好な状態で保存されている。

 

 この洋館の施主である島津忠重公爵は明治19(1886)年、鹿児島市の仙巌園(島津家の別邸)で生まれた。四男だったが、兄たちが早世したため同31(1898)年に父の跡を継いだ。島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通っていたが、家督相続後ほどなく上京し学習院に編入学。その後は海軍兵学校へ進み、同41(1908)年には少尉に任官した。同44(1911)年、満25歳に達したことで貴族院公爵議員に就任。海軍大学校(甲種学生18期)での修学を経て大正8(1919)年には少佐に昇進した。

 

 昭和金融恐慌によって、昭和2(1927)年に別名〝華族銀行〞と呼ばれた十五銀行が経営破綻すると、島津家も財政的な打撃を受けた。昭和4(1929)年には2万坪以上あった敷地の大部分を箱根土地(旧コクドの前身)へ売却し、洋館周辺の8千坪を残すのみとなった。さらに、戦争の影響もあって大邸宅の維持が困難になると、島津家ではこれも箱根土地に売却。その後、同社から日本銀行へ所有が移った。忠重公は昭和10(1935)年に海軍少将となり、同年予備役編入。

 

 戦災を免れた邸宅は戦後GHQの管理下に入り、将校宿舎として昭和29(1954)年まで使用された。接収解除後の昭和36(1961)年、清泉女子大学が日本銀行から土地と建物を購入し、翌年4月には横須賀市からキャンパスを移転。

 

 大正の貴顕が集った旧大名華族の洋館は、落成から100年を経た今日も、才媛の集う大学本館として堂々と機能している。

(写真提供:清泉女子大学)