旧山本有三邸

東京・三鷹市(2013年2月号)



 玉川上水の水面に、冬木立の朽葉がたゆたう。ここは、春の訪れを間近に感じる東京・三鷹市下連雀。武蔵野の面影を色濃く残す、緑に囲まれた水辺の遊歩道「風の散歩道」を歩けば、この洋館建築に出会える。

 

 「三鷹市山本有三記念館」として一般公開されているこの洋館は、小説『路傍の石』などの作者として知られる作家・戯曲家、山本有三(1887〜1974年)の旧邸宅。山本は1936(昭和11)年から46(昭和21)年までの10年間、家族とともにここで暮らした。

 

 登記簿に残る記録(大正15年12月22日登記)から、竣工は1926年頃と思われる。東京市内の資産家の多くが郊外に新居を構えるようになったのは、関東大震災(大正12年)以降のこの時期からだ。

 

 最初の所有者(施主)は清田龍之助(1880〜1943年)という人物。「一橋大学学問史」によると、清田は米国へ留学しイェール大学を卒業。日本電報通信社(電通や共同通信社などの前身)の外報部長を務めた後、東京高等商業(一橋大学の前身)や立教学院で商業英語の講師・教授を歴任。さらに実業の道へ転じ、濱口商事という商社で総支配人に就任するなど多才なひとだったらしい。濱口商事は醤油醸造業の濱口家が設立した醤油販社だったが、やがて事業は破綻。清田は再び商大(東京商科大学=旧制東京高商から改組)で教鞭を執ったという。余談だが、醤油の大手メーカーであるヤマサやヒゲタなどは、いずれも濱口家にゆかりのある会社だ。

 

 清田が東京高商の教授から濱口商事へ転出したのは1920(大正9)年のことだというから、この邸宅は彼が〝実業家〞の時代に建てたものだ。それまでの清田の住所は「東京市音羽町」(現在の東京・文京区音羽)となっており、これは〝音羽御殿〞の通称で知られる「鳩山会館」(旧鳩山一郎邸)の所在地と同じ場所。広大な敷地なので、同じ住所に2軒の家が並んで建っていたとしても不思議ではないが、鳩山和夫(鳩山一郎の父=1856〜1911年)もイェール大学への留学経験があることから、清田がその縁で、同門の先輩を頼って寄宿していただけなのかもしれない。

 

 築後、約10年で山本有三の手に渡ったこの邸宅。正門を入ると、まず目に付くのは「路傍の石」と名付けられた大きな庭石だ。山本が中野の道端で見つけてここまで運ばせたものだという。

 

 煙突のデザインが印象的な洋館は、英国風の重厚な建築(地下1階・地上2階建て)。大正末期の建築だけに、モダンな様式と正統派の様式とが随所に混在している。基礎部分は大谷石を積み上げてどっしりと構え、1階部分の外観は当時流行していたスクラッチタイルで覆い、2階部分の外壁は木組みに漆喰を塗る。柱や梁の骨組みをむき出しにしたハーフティンバーの壁面、2段の勾配をつけたギャンブレル屋根、そして極めて特徴的な3本の煙突など、貪欲なまでにさまざまな様式を融合させている。

 

 先のとがったデザインの玄関は、ゴシック風のポインテッドアーチ。階段室の天井にも中世ヨーロッパの城を思わせるゴシック風の意匠を施す。長女の部屋として使われていたというサンルームの壁面にはロマネスク風のロンバルト帯をめぐらせ、半円アーチ状に装飾された大きな窓との調和を図る。書斎は書院造風の和室で、変形船底の天井と出窓が特徴的。煙突が3本もあるだけに、当然、マントルピースも3つある。玄関脇、食堂、応接室に配置された3つの暖炉は、それぞれデザインが異なるという徹底ぶり。

 

 しかし、これほどの建築でありながら、ひとつだけ重要なことが判然としていない。それは設計者の名前。この洋館を設計した建築家は一体、誰なのか?

 

 これには諸説あるが、有力なものとしては、岡田信一郎(1883〜1932年)の名があげられる。岡田は戦前を代表する建築家。明治生命本館、歌舞伎座、ニコライ堂(再建)などを手がけたことで知られる。そして〝音羽御殿〞の「鳩山会館」も、岡田の設計によるものだ。鳩山会館は関東大震災の翌年、1924(大正13)年に竣工。さらにその2年後、鳩山邸と同じ住所に〝住んでいたと思われる〞清田龍之助が、この洋館を建てたという経緯から、こちらも岡田の設計ではないかと推測されるようになった。

 

 施主の清田は、竣工からわずか10年後にこの邸宅を山本有三へ譲ったわけだが、ここを大いに気に入っていた山本もまた、それから10年で、愛着ある我が家を手放すことになる。終戦直後、東京とその近郊で戦火を免れた洋館建築のほとんどはGHQに接収されたが、この邸宅も例外ではなかった。接収が解除されてから一度は山本の手に戻ったが、あちこちにペンキが塗られてしまっていたため、再び住む気にはなれなかったらしい。

 

 建築家不詳の瀟洒な洋館を東京都に寄贈(昭和60年に三鷹市へ移管)した山本は、神奈川県湯河原町に移り、そこで精力的な執筆活動を続けた。施主の清田は晩年、渡豪して日本語教育に従事したという。

 (写真提供:三鷹市山本有三記念館)