旧右近家住宅 西洋館

福井・南越前町(2017年6月号)



 その邸宅は、まるで日本海に突き出すようにして、いまも高台の中腹に佇んでいる。福井・南越前町。北前船の本拠地として栄えたこの街に、その邸宅は建っている。

 

 敦賀湾の出入口に位置する南越前町・河野浦は、古くから海上交通の要衝として知られる。日本海を行き交う北前船の基地として長年、その役割を果たしてきた。「河野北前船主通り」にはその名の通り、栄華を誇った船主たちの屋敷が並ぶ。そのなかで、ひときわ異彩を放つ洋館建築が「旧右近家住宅西洋館」だ。

 

 右近家は、江戸前期から明治期を通じて日本海の海運業を牽引した「北陸五大船主」のひとつに数えられる旧家。当主は代々「権左衛門」の名を世襲する。8代目のころの所有廻船は3隻だったが、9代目権左衛門の時代には海運業と同時に「買積み廻船業」を手掛けて大成功。莫大な利益を上げて持ち船は一気に11 隻となり、その後の繁栄の基礎を築いた。さらに10代目も「海商」としての事業を拡大し、北前船17隻を保有する日本海屈指の船主として大船団を形成した。

 

 右近家の敷地内には、集落道をはさんで山側に本宅と3棟の内蔵、海側に4棟の外蔵が建っている。堂々たる日本家屋の本宅は明治34(1901)年に改築されたもの。越前瓦が葺かれた切妻造りの屋根。その棟先には「右近」の文字の入った丸瓦が見える。

 

 西洋館は、越前海岸から広がる日本海と、河野地区の集落を一望できる高台に建つ。右近家の別荘として昭和10(1935)年に竣工した。

 

 茶色のスペイン瓦が葺かれた屋根が印象的な洋風建築。1階部分はスパニッシュ風、2階部分はスイスのシャレー風といった異なる建築様式にもかかわらず、調和のとれた外観を構成している。

 

 室内にはイギリスのイングルヌックと呼ばれる暖炉を備えたホールを配置。随所に施された意匠には和洋が絶妙なバランスで混在している。2階のベランダからは丹後半島までの眺望が楽しめ、「海商」として栄えた右近家にとって、まさに面目躍如たる別荘となっている。

 

 西洋館が竣工した当時の右近家の当主は、義太郎こと11代目権左衛門。明治22(1889)年生まれで、慶應義塾大学理財科に学び大正3(1914)年卒業。大正5(1916)年に26歳で11代目を襲名、家督相続した。

 

 先々代である9代目が設立に参画し、10代目も社長のポストに就いた日本海上保険株式会社では、先代の後継として社長を務めた。また、昭和19(1944)年に日本海上と日本火災が合併し日本火災海上保険(後の日本興亜損害保険、現在の損保ジャパン日本興亜の前身)が創立されると会長に就任した。

 

 11代目がこの別荘を建築した目的は、「お助け普請」だったといわれている。「お助け普請」とは、将軍や領主などが大きな土木工事を行い、領民に仕事を与えて経済を活性化させるもの。本来は公共事業のかたちで実施されるものだが、11代目は昭和初期の経済不況に直面した地元村民の雇用を作り出すために、あえて造成が難しい高台の土地に大きな建物を建築したようだ。

 

 本宅の背後の傾斜地に建つことから、母屋に対しての「離れ」と見ることもできるが、この洋館が竣工した当時、右近家はすでに実質的な本拠地を兵庫・芦屋市に移していたため、夏の別荘としての利用が多かったという。

 

 日本海を地中海に見立て、外観をスパニッシュ風に仕上げた別荘でリゾート気分を満喫する……。世界恐慌の直後、不況のどん底にあった昭和初期の日本で、「お助け普請」によってこれを実現した右近家の財力には、舌を巻くばかりだ。現在、本宅・西洋館などの建物と敷地は「北前船主の館・右近家」として一般公開されている。

(写真提供:南越前町観光まちづくり課、高橋久美子)