――そこは、小さな森の中の異空間…。京王・井の頭線の駒場東大前駅から閑静な高級住宅街を10分ほど歩く。緑豊かな駒場公園内に、竣工当時「東洋一の大邸宅」と謳われた旧前田侯爵邸は建つ。
前田利家を家祖とする加賀百万石の大大名、前田宗家は、明治17年の「華族令」発布により侯爵の爵位を授与された。江戸の昔、前田家の江戸屋敷といえば東大の「赤門」でお馴染みの本郷(文京区)にあったが、東京帝国大学の敷地拡張とともに駒場のこの地へ移転してきた。もともとこの土地は東大農学部の実習地だったので、本郷の屋敷地と交換したことになる。その敷地面積は、約4万坪もあったというから桁違いのスケールだ。
竣工は昭和4年。第16代の当主、前田利為(まえだ・としなり=1885〜1942年)侯爵の本邸として建てられたもの。石造りの重厚な門を入ると、若草色の屋根に赤レンガ張りの洋館が威容を誇る。さらに奥へ進むと、木の間隠れに和館が見えてくる。地上3階地下1階建ての洋館と、2階建て書院造りの和館とは渡り廊下で結ばれている。
イチョウやケヤキ、白樫などの樹木がうっそうと茂る駒場野の田園をそのまま生かした奥庭や芝生の広場。使用人だけで100人以上いたというこの大邸宅は、現在でも充分に「加賀百万石」の威厳と面目を保つ規模、そして昭和初期の華族の社交場としての面影を色濃く残す名建築だ。
ロンドン駐在武官として英国に赴任した経験もある利為侯にふさわしく、駒場の野趣にあわせたイギリス様式の洋館と、海外からの賓客のための純日本風建築の和館とが絶妙なバランスで併設されている。とくに洋館は、イギリス後期ゴシック様式の流れを簡略化したチューダー式の建築で、玄関ポーチの偏平アーチにその特徴をみせている。設計は東京帝大の塚本靖教授に依頼され、宮内省内匠寮の高橋禎太郎技師が実際の設計を担当した。和館は帝室技芸員の佐々木岩次郎が設計したもの。
建築当時、陸軍中将だった利為侯は「贅沢に過ぎる」との批判に対して、「外国との体面上、これぐらいは必要」として意に介さなかったという。いわばこの邸宅は、最初から高級軍人の豪邸としてではなく、前田宗家の私設迎賓館として建てられたものだったといえるだろう。それゆえ内装には、王朝風の装飾やイタリア産大理石のマントルピース、イギリス製家具が配され、壁にはフランス産の絹織物や壁紙がふんだんに使用されている。全体的にヨーロッパ調の室内だが、随所に唐草や雛菊の紋様をあしらうなど、江戸の風情も添えている。外観は、当時流行した長手のスクラッチ・タイルを貼り、落ち着いた雰囲気を漂わせる。
利為侯は芸術を愛した文人肌のひととして知られる。美術工芸・書籍などの蒐集家としても著名で、本来は外交官などの文官を志向していたとされるが、「大・前田」宗家の当主としては軍人の道を歩まざるを得なかったようだ。侯爵は第二次世界大戦にボルネオ方面軍司令官として従軍中、昭和17年9月に消息を絶っている。
戦後はGHQに接収され、ホワイトヘッド第五空軍司令官の公邸として使用された。さらに、マッカーサー最高司令官の解任後は、リッジウェイ極東総司令官の官邸としても使われた。接収は昭和32年に解除され、東京都が建物と土地を買収し、昭和42年に「東京都立駒場公園」として開園された。同時に洋館はそのまま利用され、「東京都近代文学博物館」(平成14年に閉館)となった。昭和50年には公園の管理が都から目黒区へ移管されたため、旧前田侯爵邸は現在、「目黒区立駒場公園」のなかに位置することになる。
―― そこは、区立公園の中の異空間……。森の中の豪奢な邸宅からは、今宵も夜会に集まった貴婦人たちの談笑と、楽団の奏でる円舞曲が聞こえてきそうな錯覚に陥る。激動の時代を80余年にもわたって見つめ続けてきた旧前田侯爵邸は、緑に囲まれた都会のオアシスとして、今日も訪れる人々を異空間への小旅行へと誘う。
(写真提供:東京都、目黒区)