静岡市南部の海沿いを走る国道150号線。陽光降り注ぐ久能海岸の砂浜から駿河湾、そして太平洋を臨み、さらには富士山をも一望できるこの地に「旧マッケンジー邸」の通称で親しまれる瀟洒な洋館が建っている。
駿河の太陽に輝く南欧風の美しい純白の外壁が、訪れるひとに強烈な印象を与える。これは、消石灰に大理石の粉や粘土粉を混ぜたものをコテで塗り付けるスタッコ(化粧漆喰)仕上げによるもの。赤い西洋瓦葺きの屋根、アーチ型の窓、ロートアイアンの装飾グリルなど、随所に設計者であるウィリアム・メレル・ヴォーリズが得意としたスパニッシュスタイルの建築様式がみられる。
潮風による腐食を防ぐため、土台には木材ではなくコンクリートを使用。床下や天井裏を広くし、風通しを良くするように配慮されている。また、スチーム暖房用の温水タンクを天井裏に設置したり、真鍮製のドアノブに特注品を使用したりするなど、空間と意匠への細かい気配りが随所にうかがえる。キッチンのアメリカ製調理器具やマントルピース、水洗式トイレ、さらには地下室にボイラーを設置したスチーム暖房など、近代的な設備も当時のまま保存されている。
竣工は昭和15(1940)年。米国貿易商社A・Pアーウィン商会の日本支社に赴任したダンカン・ジョセフ・マッケンジー、エミリー・マーガレッタ・マッケンジー夫妻の邸宅として建築された。夫妻が来日したのは大正7(1918)年のことで、この屋敷が建つまでは市内の住宅地、西草深町(現在の葵区西草深町)に居住していたという。この頃、同じ西草深町で静岡英和女学院の校舎設計を担当していた建築家のヴォーリズと知り合い、自邸の設計を依頼する間柄になったのではないかと思われる。
建築家でキリスト教徒伝道者でもあったヴォーリズは、実業家としての顔も併せ持ち、外皮用薬「メンターム」を主力商品とする近江兄弟社の創業者としても知られる。子爵令嬢の一柳満喜子と結婚したことから自らも一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)と名乗った。「米来留」は、「米国から来て近江に留まる」という洒落から付けたもの。妻の満喜子の次兄は、大阪の実業家である広岡家(大同生命保険の前身である加島屋および加島銀行の創業家)の信五郎・浅子夫妻の娘、亀子と結婚して婿養子となった広岡恵三。
この邸宅の施主であるダンカン・ジョセフ・マッケンジーは、貿易商として静岡県特産の日本茶の普及促進と輸出拡大に尽力した人物。
日米開戦後もこの地にとどまっていたが昭和18(1943)年には夫人とともに一時帰国を余儀なくされた。終戦後の昭和23(1948)年に再来日を果たしたが、そのわずか3年後には持病の喘息が悪化してこの世を去ってしまう。
夫人のエミリー・マーガレッタ・マッケンジーは再来日後、戦前から続けていた社会福祉事業を再開。静岡市赤十字奉仕団顧問に就任して献身的に活動した。未亡人となってからもここで暮らし、市民から「マッケンジー夫人」と呼ばれ親しまれた。昭和34(1959)年には社会福祉家としての多大な貢献から静岡市名誉市民(第1号)となり、その後も私財を投じて市内に乳児院を開設するなど社会福祉の向上に尽力した。昭和47(1972)年に帰国し、その翌年、米国カリフォルニア州バルアロト市で86歳の生涯を閉じた。
夫人は帰国する際、この敷地を静岡市へ寄贈すると申し出た。静岡市は敷地の半分を受け取り、残りの土地と建物は買い取った。
この邸宅の最上部には、天体観測を趣味としていた夫のために展望室が設けられおり、マッケンジー夫妻はこの自邸に「HOMAM(ホマン)」の愛称を付けていたという。ホマン(あるいはホマム)は「ペガサス座ゼータ星」のことを指す固有名。もともとはアラビア語で「英雄の幸運」「勇者の幸福」といった意味の言葉に由来するものだという。
(写真提供:静岡市観光交流文化局文化財課)