JR磐越西線に揺られて早春の会津を訪ねると、猪苗代湖畔に残る明治後期の名建築「天鏡閣」に出会える。
有栖川宮威人親王(1862〜1913年)の別邸として建築された天鏡閣は、明治41(1908)年に竣工。完成後すぐに皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の行幸があり、漢詩を好んだ皇太子が李白の詩句「明湖落天鏡」から撰して天鏡閣と名づけた。落成から100年以上を経過した今日では、邸宅を囲む樹木が建物よりも高く成長したため、館内から猪苗代湖を眺望することはできないが、竣工当時は湖面が鏡のように映し出す四季の彩りを、この洋館から楽しむことができたのだろう。
煉瓦造りの重厚な柱門は、両開きの鉄柵扉を吊っている。その表門を抜けると、白い板壁や玄関上部のバルコニーが強い印象を与える外観が眼に飛び込んでくる。ルネサンス風の様式を巧みに取り入れた和洋折衷の建築で、望楼のように設けられた八角塔屋が特徴的なフォルムを示す。スレート葺き屋根の2階建てだが、八角塔屋によって一部分は3階建てとなっている。外壁の下見板貼、縦長の上げ下げ窓、棟飾り、丸窓のドーマ(採光窓・屋根窓)など、随所に凝った意匠がちりばめられている。
本館の玄関を入ると中央部に階段が設けられている。この中央階段で仕切るかたちで南側には主要室を、北側には小部屋を配している。南側部分の1階には食堂、客間、撞球(ビリヤード)室などを配して接客・社交の場とし、2階には御寝室、御座所、御居間、西客室などが配置されプライベートな一角となっている。
別館は管理・事務棟兼使用人宿泊所などとして使用されていたものと考えられ、簡素ではあるが本館に倣った外観を呈している。
有栖川宮威仁親王の死後、大正11(1922)年には、威仁親王妃の静養のための和風別邸(現在の福島県の迎賓館で、国の重要文化財)が、高松宮宣仁親王によって天鏡閣の近くに建てられた。しかし、その翌年には親王妃も死去したため、大正13(1924)年には高松宮家が有栖川宮家の祭祀を継承。天鏡閣も高松宮家に引き継がれた。この和風別邸は木造平屋建て、銅板葺き屋根、総檜づくりで、釘を1本も使わずに建築されたもの。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の静養にも利用されたという。
戦後の昭和27(1952)年には、敷地と建物の一切が高松宮家から福島県へ払い下げられた。福島県では当初、職員研修所などとして使っていたが、建物の老朽化に伴い昭和46(1971)年には使用を中止。その後、約8年間は閉鎖状態だったが、昭和54(1979)年、国の重要文化財に指定されたことで、福島県では2年の歳月をかけて修復工事を実施するとともに、家具調度品も復元し、併せて高松宮家から寄贈された有栖川宮家ゆかりの品々なども展示して一般公開した。
磐梯山の懐に抱かれた猪苗代湖を臨む会津の地は、避暑や賓客のもてなしには絶好のロケーションだったことだろう。天鏡閣の豪華なカーテンやジュータン、そして各室を飾る絢爛たるシャンデリアや大理石製のマントルピースなどは、明治後期の気品を偲ばせつつ、そのほのかな香りを現在に漂わせている。
(写真提供:福島県観光物産交流協会)