木曽川、長良川、揖斐川――。木曽三川が伊勢湾へと注ぐ河口に位置する桑名は、古くから水運が発達し、交通の要衝として栄えた城下町。穀倉地帯の濃尾平野・伊勢平野から運ばれてくる物資、とくに米の一大集積地で、桑名宿と宮宿(現在の名古屋市熱田区)を結ぶ「七里の渡し」でも知られる東海道随一の宿場町でもある。
陸運・海運ともに発達した桑名では、その地理的条件と港湾都市としての機能性から米相場が開かれた。その歴史は古く、江戸時代の天明4(1784)年にはすでに米取引の会所が置かれていたという。明治27(1894)年には「桑名米穀取引所」が開設され、昭和6(1931)年に廃止されるまでの37年間にわたって、大阪・堂島、東京・日本橋蛎殻町、下関・赤間関などと並び称される米穀取引所として繁栄した。とくに桑名の取引所は全国で唯一、夕方にも市場が開かれたため「桑名の夕市」と呼ばれ、他所にさきがけて「桑名が全国の米相場を決める」といわれた。
「六華苑」は、桑名の米相場で大儲けし、のちに「日本一の山林王」「日本一の大地主」などと呼ばれるほどの財を成した実業家、諸戸家(本家)の旧邸宅(東諸戸邸)とその庭園の総称で、国の重要文化財・名勝に指定されている。
諸戸家は、米仲買業から身を起こした初代の諸戸静六(1846〜1906年)を家祖とする桑名きっての素封家一族。静六は、明治10(1877)年の西南戦争で軍用御用(兵糧調達)として奔走し、そこで得た巨額の資金を元手に「田地買入所」をはじめ、わずか5年ほどで5千町歩(約5千ヘクタール=東京ドーム約1070個分)もの田畑を買い集めた。さらに、山林・田畑に限らず、東京の恵比寿・渋谷・駒場の周辺では住宅地を約30万坪も買い集め、一時は渋谷から世田谷まで、他人の地所を踏まずに歩けたほどだったといわれている。
六華苑の邸宅は初代の名跡を継いだ四男、2代目・諸戸静六(1888〜1969年)の新居として建築されたもの。諸戸家は、初代の没後にその本邸(桑名市内に「諸戸氏庭園」=西諸戸邸=として現存)を譲り受けた二男の精太(1885〜1931年)が「諸戸宗家」(西諸戸家)、2代目・静六が「諸戸本家」(東諸戸家)と称し、現在でも〝東・西〞の両家で幅広い事業を展開する「諸戸グループ」を形成している。
つまり六華苑は、「旧東諸戸家邸宅」ということになる。洋館と、それに連なる和館は明治44(1911)年に着工し、大正2(1913)年に竣工したもの。広大な池泉回遊式の日本庭園は、総面積が約1万8千平方メートルにもおよぶ。
洋館は、鹿鳴館などの設計者として名高いイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルの手によるもの。明治政府のお雇い外国人技師として来日したコンドルは、政府関連の建物を数多く設計したため、建築作品のほとんどが東京に集中している。現存するコンドル作の建築物としては、この旧諸戸静六邸が地方で唯一のものとなる。
「日本近代建築の父」とまで呼ばれるほどの大家だったコンドルが、当時まだ23歳の若者に過ぎなかった2代目・静六の設計依頼を受けた背景には、初代が西南戦争での兵糧調達などを通じて政府要人とのパイプがあったことや、三菱財閥の創始者である岩崎家との交流があったためだと考えられている。
ヴィクトリア朝の様式を随所に取り入れた擬洋風建築の洋館は木造2階建て。高くそびえる4階建ての塔屋や、庭に面して多角・多面のガラス窓を張り出した2階のサンルーム、白い柱で囲まれた1階のベランダなどが、全体の外観を印象的なものとしている。設計当初、塔屋は3階建てとなる予定だったが、「揖斐川が見渡せるように」という施主の意向で4階建てに変更された。内部は洋間に襖があるなど、和洋折衷のデザインとなっている。
和館は諸戸家のお抱え大工だった棟梁、伊藤末次郎によるもの。木造平屋造(一部2階建て)の純和風建築で、建築面積は洋館よりもさらに広い。洋館とは別棟ではなく、壁が直接つながっていて、家人たちの生活はこちらの和館が中心だったという。周囲に板廊下をめぐらせた贅を凝らした普請で、各部屋から板廊下までは畳廊下を設けている。
戦中・戦後は諸戸家の関連会社の事務所などとして使われたほか、戦後の一時期は被災した桑名税務署の仮庁舎としても使用されたことがあるという。初代・静六が、私財を投じて敷設した水道を寄贈するなど、諸戸家は代々、地元・桑名に貢献してきたため、邸宅を税務署へ提供する際にもすすんで協力したとされている。
(写真提供:桑名市教育委員会・六華苑)