鳥取藩は、因幡・伯耆の2国、32万5千石を領した大藩として知られる。歴代藩主、池田家の居城として市内の久松山(きゅうしょうざん=海抜263m)に置かれた鳥取城。「仁風閣(じんぷうかく)」は、その城跡に建つ瀟洒な洋風建築だ。ルネッサンス様式の洋館は中国地方でも屈指の明治建築として名高く、昭和48(1973)年には国の重要文化財に指定されている。
竣工は明治40(1907)年。当時の皇太子、嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として旧鳥取城内の扇御殿跡に建てられたもので、それ以降は池田家の別邸として使用された。施主は14代当主の池田仲博(いけだ・なかひろ)侯爵。「仁風閣」の館名は、皇太子の行啓に随行していた東郷平八郎(元帥・海軍大将)が命名したもので、このときの揮毫額がいまも2階ホールに掲げられている。
設計は宮内省の匠頭だった片山東熊(かたやま・とうくま)工学博士が担当。工部大学校(東大工学部建築学科の前身)で片山博士の後輩にあたる地元・鳥取市出身の橋本平蔵が施工を監督した。片山東熊は、「鹿鳴館」の設計者として知られる英国人建築家ジョサイア・コンドルに学び、宮内省へ入省後は、明治洋風建築の最高傑作といわれている赤坂離宮(旧東宮御所、現在の迎賓館)をはじめ、奈良国立博物館や京都国立博物館など数多くの有名建築を手がけ、当時すでに宮廷建築の第一人者と称されていた。
ルネッサンス様式を基調とした白亜の洋館は木造瓦葺2階建て。セグメンタルぺディメント(櫛形破風)の棟飾りが印象的な正面外観。建物の随所にスクロール(巻軸模様)が配されており、寄棟造りの瓦屋根にはクラウン(王冠)の棟飾りと6つの煙突、円形の換気窓なども設けられ、印象的な外観にさらなる変化を与えている。
館内の螺旋階段に通じる特徴的なゴシック風の八角尖塔(階段室)が、建物全体に安定感を持たせる効果を発揮しており、2階のガラス張りのバルコニーからは池泉回遊式日本庭園の「宝隆院庭園」を一望できるように演出されている。また、「仁風閣」には鳥取県下ではじめて電灯が導入され、室内のシャンデリアと夜空を彩るイルミネーションを華々しく灯したという。
「宝隆院庭園」は、久松山を背景とする山裾の台地に設けられた池庭。文久3(1863)年、12代藩主の池田慶徳(水戸藩主徳川家出身、15代将軍徳川慶喜の異母兄)が、若くして未亡人となった先代(池田慶栄)の夫人、宝隆院のために造営したもの。庭園の西南隅には茶座敷「宝扇庵」が設けられ、これらを含めて池のまわりを回遊することができる。
室内にも随所に意匠が凝らされており、なかでも螺旋階段の構造・装飾に施された職人の技術は圧巻。階段には支柱がなく、堅いケヤキを彫った厚板の簓桁(ささらげた)で支えている高さ4mの曲線美は、まさに芸術品といえる。
14代当主の池田仲博侯爵は明治10(1877)年生まれ。仁風閣の完成時はまだ29歳という若さだった。実父は徳川慶喜で、〝最後の将軍〞の五男として初めは「博(ひろし)」と名乗っていた。明治23(1890)年、従兄にあたる池田輝知侯爵が嗣子のないまま30歳で他界したため、わずか12歳で婿養子として池田家・侯爵位を相続・襲爵。このとき、鳥取藩の初代藩主である池田光仲の1字を加えて「仲博」に改名した。21歳で陸軍士官学校(10期)を卒業し歩兵少尉に任官。明治35(1902)年からは貴族院議員も務めた。仁風閣の竣工から2年後の明治42(1909)年には予備役に編入されている。昭和21(1946)年、華族制度・貴族院の廃止に伴い失爵・失職。昭和23(1948)年、70歳で死去。
現在、仁風閣の周辺は久松公園として整備され、春は桜、秋は紅葉の名所として全国各地からたくさんの観光客が訪れる。白亜の洋館「仁風閣」と、四季折々の色彩とが織りなす絶妙なコントラストは、1枚の絵画のように美しく、鳥取市民の憩いの場ともなっている。
(写真提供:仁風閣、NPO法人 とっとり観光ガイドセンター)