アサヒビール大山崎山荘美術館

(旧加賀正太郎邸 大山崎山荘)

京都・大山崎町(2016年8月号)



 天正10(1582)年、本能寺の変が起きると、羽柴秀吉は備中高松から京へと引き返してくる。世に言う「中国大返し」。その羽柴軍と明智光秀軍が雌雄を決した山崎合戦の舞台、天王山の南麓にこの美術館は佇んでいる。約5500坪の庭園に英国風山荘の本館と、建築家・安藤忠雄氏の設計による展示棟「地中の宝石箱」「夢の箱」などの建築物が配置されている。

 

 大正から昭和にかけて建築された本館は、もとは関西の実業家・加賀正太郎の別荘だったもの。加賀は明治21(1888)年に大阪で生まれ、12 歳のときに父親を亡くしたため家を継いだ。江戸時代から両替商として栄えた加賀家は、明治に入ってからは米穀仲買業や繊維業、証券業にも参入し「加賀商店」を開業した。

 

 加賀は東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業後、22歳で欧州へ遊学。アルプスのユングフラウ(標高4158メートル)の登頂に、日本人として初めて成功した。英国では王立の植物園「キュー・ガーデン」などを訪問し蘭栽培を見学、大いに感銘を受けたという。

 

 帰国後は加賀商店(のちに加賀証券に社名変更)を再開して社長に就任。山林経営や土地開発、ゴルフ場設計、そして蘭の栽培などに手腕を発揮した。

 

 明治44年(1911)年には、英国のウィンザー城からテムズ川を見下ろしたときの眺望に似ているとしてここに広大な土地を購入。翌年から山荘の建築に着手し、大正4(1915)年には最初の望楼栖霞楼(白雲楼〈木造〉)が完成した。本館は昭和7(1932)年に竣工したもので、当時としてはまだ珍しかった鉄筋コンクリート造の建物。外観はチューダー様式で、木材の柱を露出させたハーフティンバー工法を採用している。加賀はこの山荘に併設した温室で洋蘭の研究や品種改良にも没頭し、多くの新種を開発したという。浮世絵の技法を用いた木版画による植物図譜『蘭花譜』も出版している。

 

 加賀はその後もさまざまな事業を手がけ、昭和9(1934)年には竹鶴政孝を援助して大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)の創業にも参画。70%を出資して同社の筆頭株主となり、社内では「ご主人様」と呼ばれた。

 

 しかし、昭和29(1954)年にはガンのため自らの死期を悟り、ニッカ株の散逸を防ぐ目的で交友のあった朝日麦酒(現在のアサヒビール)初代社長の山本爲三郎に譲渡。その年の8月、66歳で世を去った。

 

 山荘はその後、加賀家の手を離れてさまざまな所有者の手に移り、一時は会員制レストランなどとして利用されていたこともあった。バブル期にここを買収した不動産業者は、一帯を開発してマンションを建てる計画を打ち出したが、天王山の景観が一変してしまうことに反対する地元住民の強い反対により山荘の保存を求める住民運動が展開された。その結果、京都府や大山崎町からの協力要請に応じたアサヒビールが行政と連携して山荘を復元・修復するとともに、付属施設を整備した上で美術館として公開することとなった。

 

 山荘の復元にあたっては、建築家の安藤忠雄氏を設計・監修者に選任。山荘の内外装は建設された当時のクラシックな姿に修復した。また、廊下で結ばれたシリンダー状の新展示室は、周囲の自然環境や山荘の落ち着いた調和を乱さないための配慮から半分地下に配置された。階段状の廊下はガラス張りで光があふれる。その一方、地下の展示室は光量を落した静謐な空間となっていて、光のコントラストを演出している。

 

 保存・修復工事を終えた山荘は、平成8(1996)年に「アサヒビール大山崎山荘美術館」として開館した。以来、多くの観光客を受け入れている。

 (写真提供:アサヒビール大山崎山荘美術館)