「紀州のドン・ファン」こと資産家の野崎幸助さんが、総額13億円に上る遺産の全てを和歌山県田辺市に寄付するという遺言を残していたことが明らかになった。市は受けとる方向だが、相続財産という性質上、完全に遺言の内容どおりに財産が渡るわけではなさそうだ。ドン・ファンの生前の思いは叶わないようだが、自分の財産を思い通りに授けることはできないものなのか。また逆に「あの人に遺産を渡したくない」という思惑を現実のものとすることは可能なのか。
和歌山県の実業家だった野崎さんは、4千人もの女性に多額のお金を貢ぐなどの破天荒な生き方から「紀州のドン・ファン」と呼ばれ、以前から注目されていた。昨年5月に自宅の寝室で死亡し、1年以上経ったいまでも警察が不審死として事故と事件の両面で捜査を続けている。このたび、多額の資産を寄付するという遺言書の存在が明らかになったことで、改めて世間の注目を浴びている。
遺言は野崎さんの会社の元役員が代理人弁護士を通じて家庭裁判所に提出したものだという。そこに書かれていたのは「個人の全財産を田辺市にキフする」(原文ママ)という言葉だ。田辺市は遺産額の調査を進め、土地や建物、預貯金、金融商品などの財産を把握。負債を差し引いても13億2千万円に上るという遺産を受け取る意向であることを9月中旬に公表した。
遺言が残されていれば民法900条で定められた法定相続分に縛られずに遺産は分割されることになるが、一方1028条では相続人ごとに最低限の取り分である「遺留分」を認めているため、必ずしも遺言の内容どおりに遺産分割が終了するとは限らない。野崎さんのケースでは、法定相続人である妻が田辺市に請求すれば、遺産総額(13億2千万円)の半額である6億6千万円が渡ることになる。
遺言では受け取り分がゼロとされていた妻だが、遺留分の返還請求によって多額の財産を受け取れることになる。しかしそもそも、野崎さんの相続人は妻と数人のきょうだいで、遺産分割の基本である法定相続のルールに従えば妻は全財産の4分の3、すなわち9億9千万円を受け取れるはずだった。田辺市から取り戻せる金額と比べると3億3千万円もすくない。財産を残す立場の人が「相続人にできるだけ財産を渡したくない」と考えた場合、遺言を作成することで法定相続分より少ない額にすることが可能というわけだ。
ただし野崎さんが遺言を書いたのは現在の妻と結婚する前であり、妻の受け取り分を減らす意図が込められていたかどうかは不明だ。仮に財産を渡したくない相手が野崎さんの頭に浮かんでいたとすれば、それは野崎さんのきょうだいということになるだろう。
週刊紙やインターネットニュースでは55歳年下の妻の話ばかりがフォーカスされるが、遺言書の内容に対して最も動揺したのはきょうだいかもしれない。
元々は法定相続に従って財産の4分の1を分け合えたところ、遺言によって一円も受け取れなくなってしまったためだ。法定相続人であっても、きょうだいだけは遺留分を認められていない。
つまり「全財産を田辺市に寄付する」とされていた以上、その内容にたとえ納得できなくても、遺留分の取り戻し請求をすることはできない。そのため野崎さんのきょうだいは遺言そのものの法的効果を疑い、偽造されたものであるとして、裁判所に異議申し立てをしている。
一部報道によると、野崎さんときょうだいとの関係は良好とは言えなかったようだ。両親の死後には遺産相続を巡って争いが生じたとされる。きょうだいに財産を渡さないために遺言を残したと推測することができなくもない。
ここまで見てきたように、財産を特定の個人に渡したくない場合や法定相続人以外に渡したいケースでは遺言書が一定の効果を発揮する。ただ、渡したくない相手がきょうだいであれば一円も引き継がせずに済むが、それ以外の法定相続人は相続分が減額されはするものの遺留分は必ず受け取れることになる。
では、法定相続人以外の人にできるだけ多くの財産を残したい場合にはどのような手段を講じればよいのか。遺留分を無視して相続人の財産を減らすことはできないものとされているが、唯一その定説を覆す可能性があるのが信託だ。信託とは自分の財産を信頼する誰かに委ね、指定した人のために財産の管理や処分を行ってもらうという制度で、信託法は民法に優先されるとする考え方もあることから、これまでできなかった財産の引き継ぎが行えると言われる。
ただ、法律上では遺留分を無視して法定相続人以外の人に引き継がせることが可能とされていても、実務上ではさまざまなリスクがまだ払拭できていない状態で、どこまで信託が思いを実現させてくれるものなのか未知数な部分もある。そのため信託を利用する際には慎重な判断が必要だ。
つまり遺言や信託によって財産を渡す相手を指定しても、その通り確実に遺産が引き継がれるとは限らない。
自分の財産を法定相続人ではない特定の相手へ確実に渡したいのであれば、最善の策は生前贈与してしまうしかない。野崎さんは数多くの女性と交際していたことで知られるが、その女性たちには贈与のかたちで多額のお金を渡していたことがうかがえる。実際、本人には『紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男』(講談社)という著書があり、現時点で確認できている遺産(13億2千万円)よりもはるかに多い額の生前贈与に成功したと言えるかもしれない。
野崎さんの遺言では遺留分のルールを超えた内容が記されていたため、妻は遺産の半分の取り戻し請求をすると見られている。最終的に妻に財産が渡るのであれば、遺言の内容を「財産の半分は妻、半分は田辺市」と書き換えた方がわだかまりは少なくて済んだはずだ。遺言があることでトラブルを生むことがないように、様々な可能性を考慮したうえで財産の引き継ぎ方を考えたい。
(2019/10/30更新)