睡鳩荘(旧朝吹山荘)

長野・軽井沢町(2017年9月号)



 長野県北佐久郡軽井沢町。高級別荘地として知られるこの地に、その洋館は建っている。旧朝吹山荘、通称「睡鳩荘」(すいきゅうそう)。もともとは旧軽井沢にあった建物を、平成20(2008)年に塩沢湖畔の現在地へ移築・復元したものだ。現在は美術館やレストラン、ショップが集まる総合リゾート施設「軽井沢タリアセン」の中に位置し、ゴーカートなどのレジャーを楽しむ子ども連れや観光客に公開されている。

 

 この山荘の施主である朝吹常吉(あさぶき・つねきち)は明治10(1877)年に東京で生まれた。父の朝吹英二は三井財閥系企業の重役を歴任した財界人。

 

 常吉は慶應義塾幼稚舎を経て同校の正科を卒業し、イギリスに留学してロンドン大学で経済学を修めた。帰国後は日本銀行に入行し6年勤務。その後、商社マンに転じて米国へ渡り、三井物産ニューヨーク支店で勤務した。

 

 アメリカから帰ると、今度は三越呉服店の常務に就任。さらに大正14(1925)年には帝国生命保険会社の社長に就任した。加えて、東京芝浦電気(東芝の前身)や王子製紙、台湾製糖の重役も兼務した。

 

 また常吉は、慶應義塾在学中からテニスの強豪選手としても知られる存在で、大正11(1922)年に日本庭球協会(現在の日本テニス協会)が創立されるとその初代会長も務めた。さらに、妻の磯子もテニスの名プレーヤーだったことから、夏のあいだは避暑を兼ねて、軽井沢の別荘でテニスを楽しんでいたという。

 

 昭和6(1931)年に朝吹からの依頼を受けてこの山荘を設計したのは、アメリカ人建築家でキリスト教徒伝道者のウィリアム・メレル・ヴォーリズ。ヴォーリズは外皮用薬「メンターム」を主力商品とする近江兄弟社の創業者としても知られる人物で、この山荘が竣工する7年前の大正13(1924)年には、朝吹家の本邸(東京・港区高輪)の設計も手掛けている。

 

 山荘の外観は、ヴォーリズ建築の特徴でもあるデザイン性に優れた煙突が印象的。1階には広々としたテラス、2階にはバルコニーを設け、白い手摺と白い窓枠が建物全体の色彩を引き立てている。外壁にはログキャビン風の羽目板が使用され、2階の板壁には菱形のレリーフ調の装飾が施されている。

 

 内部も随所に山荘らしいゆったりとした空間が設けられている。ダイニングルームの中央には無垢材の大きなダイニングテーブルが堂々と置かれ、シックな豪華さを演出している。2階へと続く階段は勾配が緩やで、踏み板が奥に幅広く設計されている。また、1階と2階の間には防音のためのおが屑が敷き詰められている。

 

 朝吹常吉が昭和30(1955)年に死去すると、その長女でボーヴォワールやサガンの翻訳家としても著名なフランス文学者の朝吹登水子へ、この山荘は引き継がれた。登水子は女子学習院を中退後、昭和11(1936)年にフランスへ渡り、ブッフェモン女学校、パリ大学ソルボンヌに学んで昭和14(1939)年に帰国。戦後、再度渡仏すると昭和30年に手掛けたフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳がベストセラーとなった。

 

 英二、そして常吉と、実業界で二代続けて成功を収めた朝吹家だが、常吉の子や孫の多くは文化・芸術の分野で活躍している。

 

 常吉の長男である朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家、三男の朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。芥川賞を受賞した小説家の朝吹真理子は曾孫にあたる。